幸福の家族モデルとは?

先日の読売新聞人生案内(6/19)は、「夫への愛情が冷めた、どうしたらいいか?」というものだった。これに対する元女子マラソン選手の増田明美さんの回答があまりにも見事だっだので、紹介したいと思います。

問いの要旨「30歳台主婦。結婚10年。私は細かい性格。夫はマイペース。ここ数年夫の嫌な面(靴や服脱ぎっぱなし、おなか出る・・)ばかり目立ち、好きという気持ちが失せ、小言ばかり言っている。ただ仕事はまじめ、育児には協力的。子供に好かれる。何年たっても好きでいられる男性が他にいたのではと、最近後悔が募る。愛情が冷めたというだけで離婚するのはだめか」

回答要旨「父親としては満点。でも気になることは思い切って言おう(子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて、健康のために少しやせて・・)。「愛情が冷めた」とあなたは言うが、「恋愛感情」が冷めただけでは。夫や子供に愛情を感じることは多々あるでしょう。「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」

うーん、非の打ち所がありません。完全な模範解答。と、ここで終わってもいいのですが、ちょっと、以下の「家族の役割構造図」で分析してみたいと思います。

Photo_5   どこやらで見かけた「ボロメオの輪」がまたもや登場しました。「家族」はこの三位一体構造で説明できると思います。

母は万物を生み出す根源として大地に相当します。父はこの世(家族)の大黒柱たる「象徴」として天に相当します。無明の混沌から天地が分かれ、世界が誕生します。(まあ、一組のカップルが誕生したといっていいでしょう)母(大地)からは「生命本能愛」が天に向けて陽炎のように発せられます。これが天に達しやがて水蒸気・雲となり、父(天)は大地に心地よい雨を降らせます。これが「結婚」です。潤い続けた地上には多くの生命体が誕生します。すなわち、子供が生まれ、「家族」が誕生します。以上が自然洞察から生まれた家族像(仮説)です。

女である母は、本性として愛を純粋贈与する存在です。子供に対しては無償の母性愛、夫に対しては女としての生命本能愛を無償で注ぎ続けるのが「自然」の状態です。なお子供は一方的に「奪う愛」です。(この愛が足りないと子供は切れるようになるのです)

子供は羊水内以来の母親との一体関係に夢見心地ですが、ふと気づくと、家庭内に母子の仲を切り裂く「父」の存在を知ることになります。一方、父は父で自分の子孫が増えたことのみに満足し、妻の乳房を独占する子を厭わしくさえ思います。この相反する関係を乗り越えるには「理性」しかありません。かくて、父と子は理性愛(愛の本性ではない)で結ばれることなります。

夫は妻からの愛を受けて(陽炎)これに気づいて初めて愛(雨)を注ぐのが自然な状態といえます。つまり、妻はいつでも愛を発信し、答え(「愛しているよ」というコトバでもいい)を待っているのが自然状態なのですね。ところが、夫は、陽炎を受けても、気づかなかったり、陽炎が濃すぎて煩わしくなってつい違う大地(余所の女?)に怪しい雨を降らせてトラブったりするのですね。

さて、事例に戻ります。

夫は「育児には協力的。子供に好かれる。」ですから、「子-父」関係はOK。ただ「子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて」=理性をもう少し働かせて。また、「健康のために少しやせて」は「母-父」の生命本能愛の発現ですから「マイペースの夫」に気づいてもらうためにも「細かい性格」を生かして思い切って言おう。(付け加えると、夫は妻の愛の発現に気づき、まめにプレゼントなどの愛情表現をすると円満になるのです。)

最後に、「「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」まさにボロメオの輪の「母-父-子」が重なるところ「家族愛(無償的)」の重要性を喝破しているのです。完璧!

獅子鷹

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出雲大社に詣でる3

本殿前で一通りの説明を受けた後、改めてざっと内部を覗き込む。八雲の天井絵は正面の蔀(立ち入り禁止線)から身を乗り出さないとよく見えないので、寝そべったり、倒れこみそうになる人もいた。それより気になるのは、大黒柱右奥の御神座である。もっとも、本殿正面からは中央の大黒柱と右側の側柱を結ぶ板仕切りによって直接は見えないようになっている。蔀の最左端からわずかに空間の一部が覗けるのみである。

まあ、主は仮殿へ引っ越したのだから、霊界の盟主の気配はなく、もぬけの殻という印象であった。ほんとうになにもいなかった。(だから、俗人が入れるのだが。)

ということは、普段はやはり大国主命が「いる」のだろうか。そう「いる」のである。八百万の国日本では、古くから自然や森羅万象に神が宿ると信じている。水に水神、風に風神、木に木霊といった具合に目に見えるものにはそれを成り立たせる「何か見えないもの」がはたらいており、これを「神」というのだ。しかし、何かが見えるやいなや、神はお隠れになる運命にある。日本人には、この直観が腑に落ちるのである。

だから、大国主命=神はお隠れになっていてけっして見ることはできないが同時に「いる(観るのである)」ということになる。目に見える日本国が天皇を戴いて存続できるのは、目に見えない霊界の神の親分たる彼のお陰である。ということか。

蛇足だが、国名「日本」はなかなかに本質的な名称だ。何せ、「日、太陽」=天照、「本、根源」=大黒で、「日即是本」ということになる。これで一切を現しきっているといえる。

そんなことをつらつら考えつつ、階段をよろけながら降り、なんだかボーっとしながら八足門を出た。そうだ。もう空腹に耐えられない。はやく荒木屋の出雲そばを戴こう。銘酒「八千矛」を入手しよう。なーにこれも、大黒様の思し召しにちがいない。

獅子鷹

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出雲大社に詣でる2

バス停横の鳥居から本殿や拝殿(今は仮本殿として大国主命が仮住まい中)のある境内「荒垣」まで約数百メートルあり、参道が木立の中をなだらかに下りながら一直線に伸びている。まるで、荒垣に吸い寄せられるようにただひたすら歩く。すると、目指す本殿特別拝観の行列が荒垣正門の外まで50メートルほどはみ出しているのが見える。この列の最後尾に並んだのが、8:30過ぎ。P5130019

この日の拝観開始は9:30からであるが、もう前倒しで受付は始まっているようだった。並ぶや否や、ホッとしたのか眠気・空腹・頸痛が復活。加えて、雨が降り始めた。しかも小雨が降っては薄日が差すという不安定な天気。「大黒様」もちとご機嫌ななめか。(アパート仮住まい中に、改築中の我が家を他人に覗かれるなんていやだもんなあ。でもそこは霊界の盟主。喜んで受け入れてくれるだろう)P5130020

列は1時間ほどで本殿前へ進み、本殿前の八足門脇の受付テントで記帳を済ませて「御本殿特別拝観之証」なる券片を受け取り、いよいよ通常は天皇陛下も入場を許されない本殿へ。(ここから先は撮影禁止)

八足門の中で靴をぬぎ、真新しい白木が敷き詰められた通路を進み、急な勾配の階段を上ると、本殿が眼前にぬっと現れた。ぐるりと建屋を取り囲む縁側を南から反時計回りにゆっくり進み、最後に南面の正面前でお宮の人のお話をききながら、内部を覗き込む。

「右奥の仕切り奥が大国主命の御神座です。今は留守中です。ちょうど真ん中の柱が直径1.1メートルの「心中柱」です。まさに「大黒柱」です。天井に描かれているがの有名な「八雲之図」です。1744年の造営遷宮の際に描かれました。八雲なのに七つしか雲はありません。理由ははっきり分かっていません。一説では、近くの神社に九つの雲があり、ここの雲が飛んでいったとも言われています・・・」

(つづく)

獅子鷹

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出雲大社に詣でる

P5130016_3 先日、思い立って出雲大社に詣でた。出雲大社では、今年から平成25年にかけて、60年に一度の国宝本殿の屋根の葺き替えなどの改修を行っており、先月4月20日には祭神の大国主命(大黒様)を仮殿へ移す「仮殿遷座祭」が行われ、主が留守になった本殿を拝観できるため、ちょっと興味を引かれたのである。

出雲大社は一生に一度は行ってみたいと思っていたし、60年に一度の本殿拝観のチャンス(40代の私にとって今後事実上もう無い)という俗っぽい興味もあった。また、割子の出雲そばや地酒などに舌鼓をうちたいという本来!?の目的もあった。

大丸地下で「すし鉄」の鉄火巻きを買い、夜7時すぎに東京八重洲でスサノウ号という夜行バスに乗り、揺られること12時間。翌朝7時すぎに出雲市駅前に到着。朝飯も食べず、睡眠不足を取り戻す仮眠もせず、寝違えて痛めた頸をさすりながら、すぐに、大社行きの畑電バスに乗り換えた。目的は単純明快。本殿特別拝観の列に早く並ぶこと!!

バスは通学時間帯と重なり、多くの参拝客のほかに女子高生が多く乗り込んできて、私の隣にも座った。高齢の方も多い参拝客の高揚したざわめきある雰囲気とは対照的に、彼女たちは、試験勉強であろうか、なにやら静かに真剣にノートに見入っている。何気に目をやると、「デモクリトスの主張は」「善のイデアとは何か」「ニコマス倫理学とは何か」などの文字が躍っている。思わず「がんばって」と心の中で応援していた。と同時に、西洋哲学の起源のギリシャ哲学を学ぶ彼女たちの生まれ育った地に「出雲神話」があることを羨ましくも思った。先に国土を形成して「国つ神」となり、後に「天つ神」の天照大神に国を譲った大国主命は、目に見える存在の盟主となった天照(天皇の先祖)に対して、目に見えない霊界の盟主となり、生死一如で日本国を支えているというのだ。「千と千尋の神隠し」はまさにこのことがテーマ。目に見える世界では「千尋」という個別の名前をもった少女は、新興住宅街のはずれのテーマパークのトンネル(この世と霊界との境界)をくぐり、「千」となる。すなわち、名前を奪われる(千=たくさん、八百万の世界)ことになる。

彼女たちは大社直前のバス停で整然と降りていった。

程なく、巨大なコンクリート製鳥居が現れて、まっすぐに北に伸びる門前町にはいり、一畑電車の駅を横に見てさらに進むと、樹木に覆われた神域が忽然と現れ、俗界と分かつように鳥居が立っていた。ここでバスを降り、鳥居の前に立った。バスの中では眠気と空腹と頸痛に苛まれていたのだが、なぜかすべて止んだ。

覚醒した目で鳥居の奥を凝視する。はるかかなたの正面に、本殿が陽炎のように見えた。

次の瞬間、足取りも軽く、本殿を目指していた。

獅子鷹(つづく)

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私的つぶやき

浅間山 天地のさけめ 霊たなびく

朝顔や 迷路の先に かれんに咲け

夏の熊 巨体ゆらせば あせしたたる

オニグモと 真剣勝負し とらえられ

しめ縄の 巨木堂々 土俵入り

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その6~判断系非意識~

最後は、「行:判断系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、前段階で「想:表象系」が大活躍して(コンピュータではプログラムを実行して)いますが、その演算結果を確定させる段階です。Photo_2

ここで、判断系の非意識として、「布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の概念を提示したいと思います。まず、判断系非意識布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の入出力関係を整理しておきます。

                       リアル(環境、自分)【色:表現系、識:記憶系】

                           ↑      ↑      ↑

戒     →定     →智慧    布施/愛→共感/慈悲→真理表現【判断系非意識】

↓↑     ↓↑         ↓↑       ↑      ↑      ↑ 

体験/想像→思考/意味→分析/理解 → 感情表現→価値判断→概念/原理化【判断系意識】 


(1)布施/愛について                                                    

布施/愛は、何の感情も伴わない純粋な贈与の判断です。入力は、表象系非意識の戒と、判断系意識の「感情表現」です。前者は、直感→戒→布施/愛と流れる極めて自然なリアル/無意識と一体となったプロセスですね。後者が曲者です。通常われわれは知覚→体験/想像→感情表現というように、原初の対象をはなれ、美醜・好悪・喜怒哀楽をはじめとするあらゆる感情表現に発散させます。ここに人生を見出します。しかし、真実はリアルに近い布施/愛に気づくのが自然なのですね。感情表現に執着するから、自然に反して苦しいのです。そして感情表現(を滅し)→布施/愛リアルと環境や他人に対しては「表現」し、自己に対しては「記憶」し、よいカルマとして次のリアルとの「触」に備えるというわけです。


(2)共感/慈悲について

共感/慈悲は、布施/愛と親和する概念ですが、一つの違いは、の裏づけがある点です。こころを落ち着け、浄化されると、打算や善悪などの価値判断を超えた「無願」の判断が泉のように湧き出してきます。これが共感/慈悲です。また、「察する」の意識世界では、認知→思考/意味化(認識)→価値判断というように、原初の対象を後得の理知で「それは何の役にたつのか」「価値はあるのか」「良否は」と現世の利を求めて苦しんでいます。そこで、そういう思考判断を手放して、対象であるリアル大悲を注ごうというのが、価値判断(を滅し)→共感/慈悲リアルの流れなのです。


(3)真理表現について

真理表現は、大悲→大智という般若の智慧である「真理」の判断という意味です。判断系意識である「概念化/原理化」はあくまで現象世界における分別を原理・原則化したものですが(「真偽は」と問う)、この真理リアル/無意識(潜在性)をも含んだ「一切」を包含する真理なのですね。ですから、概念化/原理化(これは分析世界の部分的真理に過ぎないことを観じてこれを滅し)→真理表現リアルと至る流れが自然の流れといえます。

これで、非意識系についてのお話は終わります。(つづく)


獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その5~表象系非意識~

さて、いよいよ「想:表象系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」後、「受」:知覚系(INPUT)が生起し、知覚系非意識(直感→洞察→直観)を介して知覚系意識(知覚→認知→分類)が表面化します。これは、いわば、リアルとの接触をこころが了解した段階です。コンピュータでは、データをメモリに格納した段階になります。

次に、いよいよこころのメタプロセスのメインイベントである、「想」:表象系(データを読み出してプログラムを実行する段階にあたります)になります。Photo_2      

  ここで、表象系の非意識として、「戒→定→智慧」の概念を提示したいと思います。戒・定・慧といえば、「三学」といって仏教における「覚りへの道」そのものですね。まず、表象系非意識戒→定→智慧」の入出力関係を整理しておきます。                                                     

リアル(環境、自分)【色:現象系、識:想起系】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【受:知覚系非意識】 → 戒   →定     →智慧【想:表象系非意識】

↓   ↓   ↓                ↓↑    ↓↑     ↓↑

知覚→認知→分類【受:知覚系意識】 →体験/想像→思考/意味→分析/理解【想:表象系意識】                  

(1)戒について

「感ずる」に対応する表象系非意識を、いきなりという概念で提示しました。何かピンときませんね。入力関係を見ますと、表象系意識の「体験/想像」と相互に入出力関係あり、と定義しています。ここは、表象系意識の側から見てみます。

表象系意識「体験/想像」とは、「知覚」した対象を具体的にイメージする段階です。いわば、原初的な「幻想」が発生するわけです。この「幻想」に基づき、いろんな感情(美醜、喜怒哀楽・・)が発生し、いわゆる四苦八苦につながっていくわけです。ですから、「苦につながることはするな」ということになってきます。これを意識側の「体験/想像」からみれば、「苦につながるような体験/想像を慎め」であり、これを習慣化すれば、無意識側に追い込むことができ、これが表象系非意識として実践されることになります。戒が非意識的に板についてくると、逆に意識側の「体験/想像」も整えられてくるという相乗的入出力関係が成立します。

リアル(環境・自分)という「意識の生滅のおおもと」は、まったく、意識の思い通りになりません。穏やかな日もあれば、大地震の日もあります。よい出会いもあれば、悪い出会いもあります。天使の自分もあれば、よこしまな自分もあります。意識で制御はできないのです(諸法無我、一切皆苦)。できることは、これらの「体験/想像」から必然的に生ずる「苦」を極力減らすように「の習慣化」をするのみのようです。

は同じ非意識の中で、直感が入力となります。直感リアルとの原初的出会いです。リアルと想像界の最初の接触面である直感では、主客の別もなければ、概念も意味も発生しません。もっとも純粋な「リアル感受」といってもいいと思います。両義性のこの接触面を想像界側(意識側)から見ると、一でもあり多様体でもあるリアルを意識側が勝手に分節し三次元化し、さんざ悪さをしますので、リアルと一体の直感から非意識のまま上記のようなへ移行するのが自然ななりゆきではないでしょうか。

(2)定について

については、入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 定 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)洞察 → 定 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)思考/意味化 ⇔ 定 (表象系意識との相互入出力関係)

i)の習慣化(諸悪莫作 衆善奉行)によりリアルからの入力のブレがなくなってくると、自然とこころの様相は浄化され、「禅」の状態に入りやすくなります。これを意識の側から行うのが、iii)の思考/意味化からのアプローチです。すなわち、「察する」における表象とは、イメージと概念(記号・言語による)の交差点たる「思考・思量」ですが、この意識の王様たる「思考・思量」を手放すというアプローチが「非思量」でありの意識状態です。逆に、をつかむと、「思考・思量」が頭の中を通過しても、落ち着いてやりすごせるという安楽な世界が出現します(いわゆる、「自浄其意」の実現といってもいいでしょう)。また、ii)の洞察ですが、文字通り、洞は空と同じですから、何も介せずにリアルを直接「察する」という意味になります。この直接「察した」ものをそのまま、は表象する、すなわち、何も「思量せず」に受け入れるということになります。

(3)智慧について

最後は智慧です。入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 智慧 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)直観 → 智慧 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)分析/理解 ⇔ 智慧 (表象系意識との相互入出力関係)

i)はいうまでもなく、「禅」→般若の「智慧」の関係ですね。戒→定→慧という仏道の王道を智慧という「理」で表象します。ii)直観は、リアルを理屈抜きに直接把握することをさします(これが意識化すると、なんらかの「分類」にしたがって、名前付けがなされたりします)。直観がすなわち、純粋な思念の彼岸たる智慧へもたらされます。また、iii)は分析/理解という意識側からのアプローチです。「分析/理解」というのは、「思考」とならんで、人間脳の癒しがたい代表的意識形態ですね。「分かった」というのが、この意識の最大の誤謬です。なにせ、ある対象をいくつかに「分けて」これをあわせれば「一切」といって全部「分かった」と「理解」しているのですから。なにも、「分ける」必要はありません。リアルはもともと1つの「空」の世界。文字通り「分けられない=分からない」世界が実相なのです。このリアルを直接表象する智慧に気づきなさい、といっているのですね。これは、世間や意識の分別的知恵でなく、無分別的般若の智慧ということです。逆に、智慧をつかむと、本質を外さない「分析/理解」で深みがでてきます。なお、蛇足ながら、この文章のように理で智慧を表現しようとすると、ほんとうにまだらこしくなりますね。 

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その4~知覚系非意識~

Photo だいぶ間があいてしまい、失礼しました。さて、いよいよ、「悟り系」??について仮説を進めてみます。まずは、左図をよく見てください。前回の「無意識系」と「意識系」の中間に「非意識系」をピンクで挿入しています。左側のボロメオの輪のうち、無意識系Rと意識系(I(感) → I-S(察) →S(観))の重なり合う部位(R-I → R-I-S →S-R)が「非意識系」です。意識系がわれわれの心に立ち現れる(つまり、現象として分節化・差異化・非対称化される)以前の、「世界がいっしょくた」の差異のないいわば平等の世界、つまり、対称性を備える(現象前のこの段階で、現象後に分節化する対象はすべて同じ資格をもつという意味、すなわち入れ替え可能)というのが、この「非意識系」です。 

初回に、「つまり、最終的には意識世界①、②、③各々について、それ以前の世界があることを言いたい為なのですね。

これを、「感ずる」に対して「直感」  「考察する」に対して「洞察」
    「観ずる」に対して「直観」

というワードを充ててみたいと思っています。
いかにも意識の下で分別的に働いているように思われますが、実は、対象と一体化した上での心の働きだと考えています。
いわば、意識に対して非意識(あくまで無意識ではない) 」と書きました。

これを、上図の「非意識系」のマトリクスに入れてみました。

これは、以下の「こころのメタプロセス」(と名づけます)にあてはめますと、2.「受:知覚系」に対応しています。

【こころのメタプロセス】

1.「色:現象系」=外部データを入力する(自然界、他人に接する)
  「識:想起系」=内部データを読み出す(記憶、知識を想起する、生理欲が起こる)
2.「受:知覚系」=データをメモリに記憶する
3.「想:表象系」=プログラムに従って演算回路で演算を行う
4.「行:判断系」=演算の結果を確定する
5.「色:表現系」=外部へデータを出力する(身・口・意で外へ働きかけを行う)
  「識:記憶系」=内部記憶装置へデータを書き込む(経験知として記憶する)

つまりこころのメタプロセスにおいて、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」がまずあり、次にこころのうち「受」:知覚系(INPUT)が生起し、まず非意識系直感→洞察→直観の流れを介して意識系の知覚→認知→分類に表面化するわけです。(なお、カントは「純粋理性批判」でここでの「直感」に「直観」の文言を当てているようですが)

まとめると、

リアル(環境、自分)【色(現象系)、識(想起系)】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【非意識系の受(知覚系)】

↓   ↓   ↓

知覚→認知→分類【意識系の受(知覚系)】

という関係に整理できます。

では、「想」(表象系)と「行」(判断系)はどうなるのでしょうか(上図?の部分。)

(つづく)

獅子鷹

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無意識の音楽

週末に、所属するオーケストラで「オーケストラワークショップ」という催しがありました。これは地域の文化活性化への貢献を目指して、熊谷市近隣の小中学生のプレイヤーと所属オケのメンバーが一体となって協力し、短期間で(たった4回の練習!!)オケの名曲演奏に挑戦し、成果を発表するというもので、今回で5回目の試みで、着実に定着化しているようです。

今回のプログラムは以下の通りでした。

第一部

ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より前奏曲

ビゼー「アルルの女」第一組曲より前奏曲、メヌエット 第二組曲よりファランドール

第二部

ドヴォルザーク「スラヴ舞曲第8番」

チャイコフスキー「白鳥の湖」より情景、終曲

「まだ大人の音楽には慣れていないが、純真でひたむきな小中学生」と「経験だけがたより?のよく言えば多士済々、悪く言えば烏合の衆?たるオケメン」のインテグレーションをする指揮者も大変といえば大変。おかげで、2回の振り間違いをする始末。。とはいえ、なんとか破綻なく、「本番だけに強い」伝統も生きていたみたいでした。(なんのこっちゃ)

「破綻なく終わった」といいましたが、じつはそう言い切れないところがあります。

というのも、ステリハで一つの「事件」がありました。「アルルの女」第2組曲の終曲「ファランドール」はご存知のように出だしこそは統一テーマが結構ゆったりと全奏されますが、途中からAllegro vivo e decicoの四分のニ拍子でppppのTambの刻みから始まってffffの大合奏にいたるまで、延々と熱狂が拡大していき、最後は「手の舞い足の踏むところを知らず」状態で終わるというもの。実はこの間にビゼーのアッチェルランド指示は一つもありません。。にもかかわらず、たいていの演奏は自然と前のめりになるのですね。これ、「無意識」で「自然」ですね。

事件は起きました。全奏がffffに達してまもなく、満を持して中学生の大太鼓の拍打ちが加わります。「ドン」「ドン」どんどん・・。思わず指揮者は演奏を止めます。明らかに従前より速いテンポで一人旅になってしまったのです。指揮者曰く「もしあなたが皆を困らせようとしてたたくならそれでもいいです。そうでなければ、きちんと意識してテンポを刻んで」

本番を前にした昼食時、指揮者と話しました。

私「あれは無意識になってしまうんでしょうね。」

指揮者「無意識はいいんだけど、まずは「意識的」にテンポを把握してからの無意識でないとね。」

そして本番。やはりスイッチが入ってしまったようです。ステリハ以上に速いテンポで、管楽器の刻みは空転しかけた。。崩壊か。。そこは年の功。「意識的」にさりげなくぎりぎりのところで崩壊を免れ、むしろ、狂喜乱舞の大熱演となった。。

たぶん、いろんな意味でいい経験になっただろうと思います。

獅子鷹

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悟った心とは?

悟った心を喩えて、「大円鏡智」といったりします。「外」たる外界をそのまま写し、「内」たる心の内奥をあるがままに写す。大円のようにまろやかな、静謐なる、永遠に穢れることのない鏡というわけです。鏡の字は「金」ヘンに「竟」。「土」ヘンに置き換えると「境」ですからまさに「境目」を表しています。きれいに磨かれた鏡面が全く見えないように本来鏡自体に「自性」はありません。ただただ、「境目」として(いわば媒介として)「内」「外」をそのままに写すのみです。

ところが、ほとんどの人は「悟って」いません。つまり、曇っていたり、割れていたりします。そうすると、本来の「内」「外」がよく見えなかったり、全く違うように見えたりします。その結果、安全カミソリで顔を切ってしまったりすることになります(よくやるんですよ)。

では、曇らないように自分の鏡(心)を磨くとはどういうことなのでしょうか。

2つの例を挙げます。

・禅宗(達磨さんが初祖)の六祖慧能(7~8世紀・中国)は、坐禅の宗派らしく、こういいます。

、一切善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐となし、、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」

まず「」すなわち、鏡である心からみて「見る」のはたらきにおいては、外界の経験や、経験の想起を善悪、美醜、真偽といった二分法(排中律)の価値判断でするな!という。

次に「」すなわち、鏡である心からみて「観る」のはたらきにおいては、無自性である心/観念の湧き出てくるおおもと(つまり自性=空性)を観じ、信じて動揺するな!という。

これを、「坐禅」という修行で達成しようとするのです。いや、坐禅自体が悟りそのものといっているようです。ですから、禅宗では、自分の心を磨くことは「坐禅」そのものです。

・弘法大師空海(8~9世紀・日本)はこんなことを言っています。

「心というのは内部でも外部でもない。しかし、自らの内にひろがる内在的で無限の領域である。それは「空」であるけれど、あらゆるイメージ(身体としての言葉)が透明なまま重なり合っている」

なんという大胆で的確な表現でしょうか。ほんとうに悟った心から見た表現です。外とか内とか対立概念を立てるような方便的顕教的表現を突き抜けており、大日如来の心境(鏡!?)をあらわしているようです。

獅子鷹

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誰でも仏になれる?

キリスト教やイスラム教(ユダヤもそう)世界で、「誰でも神になれる。もちろん僕も!」などと呟いたとたん、「お前、気が狂ったか」と言われるだろう。しかし、日本で、「誰でも仏になれる。もちろん僕も!」といっても、それほど違和感はない。同じ「宗教」を語っていても、この違いはどこから来るのだろうか。

この違いについて「対称性人類学」を実践されている中沢新一氏は、キリスト教は「信仰」。仏教は「信心」。と言及されている。なるほど言いえて妙である。

神とその受肉者たるイエスを「信仰」するのが、キリスト教。ここでは「主体」である「自己」が「客体」である「神」を絶対的に「仰ぎ見る」という構図が見えてくる。自己と神の間に超えがたい溝があるかのごとくである。

これに対して、仏教は「信心」。自らの心身を見つめ、魂を磨くうちに心のうちに仏を見出せる、すなわち「自ら仏になれる」というのである。自己と仏の間には何の障壁もない。それに気づけ!というのである。

なんだか、後者の方に親しみがわいてくるではないか。

先般、「西洋哲学の限界」について書いたが、「信仰」における「自己と神の間の超えがたい溝」ということが形而上(目に見えないもの、普遍的なもの)と形而下(現実)とを厳密に分けることと通底しているようである。それどころか、ニーチェの「神は死んだ」以来、自己が唯一のよりどころとなり、人間の精神(ヒューマニズム)が絶対化し、暴走した。。西欧人をみていると、自信たっぷりに「自己」を語る(主張する)。しかし、どことなく、心休まらないようにも見受けられるのだ。(ビルゲイツさんなど欧米の大富豪がときに莫大な寄付をするのも、この代償ではないだろうかと勘繰っている。)

一方「信心」とは、神仏を対象化して見ていない。目に見える理知・感性も、目にみえない神仏も同じ心にあると見ている。仏(性)がグラデーションのように魂を介して生滅する意識とつながっており、しかもこれら全体が真の意味での「心」ととらえているのである。たとえば弘法大師空海の「秘密曼荼羅十住心論」を紐解くと、仏を潜在性の度合いと捕らえ、まさに、だれでも「即身成仏」できる可能性を説いているのである。

日本は、明治以降「信仰」の文明面だけを欧米から輸入した。しかし、文化性や宗教性は歴史的に「信心」が染み付いているのだから、魂のところでねじれを生じているのではないだろうか。文化性の上に文明が築かれるのが自然であるから、「和魂洋才」といっても、根無し草も同然である。日本人が海外で堂々と主張できないのにはそれなりの理由があるようだ。

とはいえ、「和魂洋才」のような奇妙な文明形態も広い意味では「信心」に吸収されうると思う。「信心」は「信仰」を包含しているからである。来るべき「超宗教」はその先にあると思う。

獅子鷹

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西洋哲学の限界とは?

新年早々恐縮ですが、私は、西洋的な「哲学」というものになじめません。どこか、限界をかかえているように思います。限界まではあらゆる分析・思考を駆使して、問い詰めるわけですが、いよいよ到達できないとなると、「語りえぬものには沈黙するしかない」(ウィトゲンシュタイン)。まあ、ブッダも哲学を語るときは「無記」というのですけれど。。

まあ、理知で世の中のあらゆる原理原則を導き出そうと苦悶することは、世の中を理解するために必要だと思いますが、どうしても理解を超えたり、認識不可能な事態が世の中には多いわけで、こういう事態を哲学の対象にしたとたんに、「形而上学」なるものに祭り上げられ、白い目でみられるというわけです。

たとえば「存在」をどう認識するかなんかがそうです。純粋思弁という「内部」にしかないような形式でいかに「存在」などの「外部」を認識をするかなどという問題の立て方をして、アポリア(解決困難な問題)を作り出すわけです。勝手に内部と外部をカテゴリー分けするからこうなるのではないでしょうか。(だから、哲学は口を折らざるを得ない!?)

獅子鷹

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宗教って何?

ある雑誌に、町田宗鳳氏と鎌田東二氏の対談が載っていた。読み進めると、「宗教をどう説明するか」というくだりで両氏が概略次のように述べられていた。

町田「二つの円を描いて、それぞれ心と身体を表す。宗教とは二円の重なった部分。この重なりの部分が大きいほど生きていて楽しいし、「ありがとう」という気持ちも湧いて来る。・・現代人はこの二円が離ればなれになっている。・・」

鎌田「心はウソをつくけど、体はウソをつかない。それと魂の関係を考えるのが宗教的レベルの話。・・ウソをつかない身体と、ウソをつけない魂がどうやって調和のある関係をつくっていくのかというのが一つの修行である。人間の心と身体と魂の関係をクリアにして、できるだけありのままの状態、ウソをつかない状態に近づけていくことが大事。」

ふたりの会話を統合して解釈すると、こうなる。

「宗教とは、優れて人の心身をどう捉えるかにつきる。心身は切り離すことができない。

①身体               =ウソをつかない

②魂(①と③の重なり合う部分)=ウソをつけない!

③心                =ウソをつく

心ができるだけウソをつかないように②の領域を大きくしつつ、①との調和をつくっていく(修行などを通じて)のが宗教のありかたである。」

とこんなところであろうか。なかなか示唆的な会話であると思う。

確かに、③心はウソをつく(人の為すことはすべて「偽」)。これに対して、①身体は正直である。寒いときは寒い。痛いときは痛い。必ず土に還る。まったく、ウソつきの心の思い通りになったためしがない(これを「諸法無我」という)。

では、②魂が「ウソをつけない」というのはどういうことだろうか。魂は身体と心の重なった部分であるから、心身の橋渡しをするとともに、心身の絶対矛盾(ウソをつかない/つく)を背負い込む微妙な役割を負うことになる。

魂が弱ければ(①と③の重なりが小さい、またはゼロ)、心は、自由を履き違えて「ウソをつけない」魂を誑かして悪魔のようにウソをつきまくる。すると、小心者の魂はウソを強いられ、本来のウソをつけない性に反するため、ますます弱ってしまう。

逆に魂が強ければ(①と③の重なりが大きければ)、ウソをつかない①身体とタッグを組んでウソつき性の心を極力おさえることができる(これを「自浄其意」という)ということか。

どうやら、「魂を強くし、かつ、身体に親しみ、心を平静に保つよう努力する」ことが、宗教の要諦であるようだ。

獅子鷹

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今年の漢字は「偽」

2007年の世相を表す「今年の漢字」に「偽」が選ばれた。老舗ブランドの相次ぐ原材料偽装、賞味期限偽装などの発覚や泥沼の年金問題などが理由という。庶民的には至極納得のいく結論ではある。しかし、よくよく考えてみると、あの雪印事件だって同じ偽装事件である。今年発覚した企業も知らぬわけがあるまい。本来ならいつでも襟を正せたわけである。「他山の石」という教訓は絵空事ということか。これでは、「悪いことをしてもばれなければいい」というのが人間の常識ということになる。。そしてばれたら「悪いやつだ、許せん!」「す、すいません」そして、沈静化したら、またぞろ。。

とはいえ、悪いことはしていないという人ももちろんいる。「悪いやつだ、許せん!」と多くの人が思う。多数派であろう。正しいことをしていればOKで悪いことをしたらNGということか。では「正しい」とか「よい」とはどんなことか。「悪い」とはどんなことか。皆さん、答えられますか?

そもそも「偽」という字は「人」が「為す」あるいは「人」の「為に」と分解できる。なんと、人が「ために為す」ことはすべて「偽」というのである。したがって、「よい」と思ってしたことも、「悪い」と思ってしたこともすべて「偽」!!「よい」と思ってしたこともなんで「偽」なのか。これはいったいどういうことか。

「為」の意味を広辞苑で引くと、①利益、幸福②目的・・とある。人間生きていくために、これらは通常欠かせない。しかし、これらの「現世の利」目当てに為す行動は「偽」というのである。つまり「有為」の行動は「偽」。なんという洞察力。日本の漢字は本当に味わい深い。

ではどうしたらよいか。

ロジカルには、有為の反対「無為」。宗教的には善悪の彼岸。つまり現世的な「利」なるものを求めないということになる。ちょっと思いついただけでも、有為の利には「権利」「便利」「金利」などたくさん出てくる。現代はこれらの利の追求は「善」となっているのだ。しかし、これらは「偽物」と喝破されているのである。この意味を洞察することから、「ほんとうのこと」が明らかになってくるのである。

では偽物でない本物の利は・・・これを「冥利」という。最近は「求めない」という信州伊那谷の老子さんの本も話題になっている。

今回揮毫した京都清水寺の森貫主は「己の利ばかりを望むのではなく、分を知り、自分の心を律する気持ちを取り戻してほしい」と話されたとのこと。

つまり、「己の利」=有為の利ばかりではなく、「分(自然の分身たる自分)」=無為の利を知り、これに基づき「自分の心」を律せよ。

至極まっとうな言葉である。

獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?(その4)

「大海原」=「無機物=物質」

「15の石」=「有機物=生命体」

と構造化できないだろうか。ということだった。

これまで出てきた事項を簡単にまとめてみよう。

①「大海原」=「無機物=物質」   ⇔ 「さとり」「空」「存在」

      ↑                 ↑

        【相対立/矛盾する関係】

      ↓                 ↓

②「15の石」=「有機物=生命体」 ⇔ 「まよい」「煩悩」

②が、人間が通常おかれている事態である。なんの変哲もない。ところが、「人間とは何か」「存在とはなにか」「生きる意味は」と問い始めた人は、うまくいくと①の世界に到達する。すると、物質である脳・からだのはたらきとして生命現象/こころが、存在のただなかかからまよえる「存在者」が、矛盾を孕みながら現出してくることが分かってくる。②は①という実相があって初めて、現象できる「はたらき」なのである。ここまで納得できれば、あとは一直線。

「空即是色」である。

大手を振って、この娑婆世界を「主人公」として闊歩できるというものである。①の世界を体得したのであるから、堂々と②へ戻ってくればよい。この宇宙、銀河系内にあって生きていること自体がまさに「神秘」であり「奇跡」であることを石は語りかけているのである。怒涛の波、足許のコケの解体力に抗い、健気に生きたいものである。

「龍安寺の庭石が新しくなった。全面的に入れ替わったわけではない。きれいに洗われ、石の表面がはっきりとみえるようになった。洗ったのは、石が崩れはじめており、それを補修するためであった。思えば不思議なことだ。長い間、白砂に配された15石は同じように薄黒く、だれもが石一つひとつの表情など問うものはなかった。・・」(小学館ウイークリーブック 日本庭園をゆく 2 より)

いけない、いけない。石はエントロピー増大の法則にしたがい、崩れてしまう。石は同じように薄黒くなり、足もとの海原へ還元されてしまうではないか。日々石(自分の命)を磨こう。さとりの世界にとどまっていてはいけない。もうすべての真実が明らかになったのだ。なにも迷うことはない。命のかぎり、生命力を躍動させよう。進んで迷おう。

「水月の道場に坐し(色即是空)、空華の万行を修す(空即是色)」

人生に意味がないなど、断じて、ない。

獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?(その3)

この地球上で「一生懸命生きる」ことは「煩悩であり、幻想なので」意味はないと言い切る人も有名な仏教学者などにもいる。「人生はもともと意味などないのだ」と。

ほんとうに、そうなのだろうか。

「物質(マテリアル)」は、実に多様な意味を含む概念である。マクロでは「もの」「自然」「宇宙」「森羅万象」などと言い換えることもできる。ミクロでは、「素粒子の離散集合」とでもいうのだろうか。一般的には、「熱力学第二法則」にしたがい、閉じた系であれば系内の物質のエントロピー(乱雑さ)は増大する。すなわち、形あるものは崩壊し、濃度の差異があれば最終的には混ざり合い均一化する方向に物事は進行する。(宇宙は閉じた系か?膨張しつづけるか、いずれ収縮に転ずるか?といった議論は措く)

ところが、わが地球には「生命体」なるものが存在する。人を含む動物・植物・微生物・ウイルスなど有機物である「生命体」は何の因果か、エントロピー増大に抗い、DNAを持ち、DNAによる自己複製・動的平衡によりエントロピーが平衡を保つように振舞うという。ところが、生命体もからだという「物質」を有するのだから、自己崩壊という矛盾を内包しつつ生命を維持していることになる。生命体は日々・刹那に細胞レベルで新陳代謝を繰り返しながら老化をたどり、やがて個体としては死を迎えるが、DNAにより種は再生されるのである。

このことは、有機物である「生命体」と無機物である物質が対立関係にあるということができないだろうか。これは、何を意味するのだろうか。

ここで、石庭にもどる。

上述は、

「大海原」=「無機物=物質」

「15の石」=「有機物=生命体」


と構造化できないだろうか。 (つづく)

獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?(その2)

さて、龍安寺の石庭の意味を「思索」してみよう。


そもそもこの枯山水の石庭は、高度に抽象的な表現だ。ベースとなる砂紋は大海原をあらわし、整然と平行に描かれる。これが15個の石組に近づくと、微妙な波紋となり、石の島に打ち寄せるかのようである。石の島は海中に没しないよういわば「我」を主張しているのだが、「自然」「宇宙」の象徴である、大海はそんなことお構いなしに、波頭を浴びせ、自身の「存在」に引きずり込もうとする。それだけではない。今にも海中に没せんとしている海面すれすれの2個の石を除き、石組みの周りには、どれも苔が取り囲んでいる。苔は、それが取り付いた対象を解体しようとするはたらきがある。すなわち、石がどんなに「我」を主張しようと、そんなものは幻想であるといいたいのであろうか。


石を人の「煩悩」と置き換え、大海を「空性」とか「さとり」とかに置き換えるとわかりやすい。前者はわれわれが日常で「自己主張」したりして人を傷つけたり、傷ついたりしている現実や現象世界であり、因果にまみれた「色(しき)」の世界。後者は、「現実は幻想である」と気づくと即その場に広がる「空」の世界、というわけである。まずは、「現実は幻想」と気づけ!

「色即是空」

ふむふむ、これだけなら、出家しなくても、坐禅や禅問答で厳しい修行せずとも、千日回峰行などせずとも、「思索」の上なら悟った気にもなってくる。(ほんとうか?)


「おれはしかし遂に無数の

石の群がりに遮られてゐた

石はみな怒り輝いてゐた

石はみな静まり返ってゐた

石はみな叫び立とうとしてゐた

ああ 石はみな天上に還らうとしてゐた」(室生犀星)


室生犀星の龍安寺の石庭を前にして詠んだこのこころの叫びにも似た詩。私の解釈では、最後の行の「ああ」の感嘆詞が「さとり」への跳躍をあらわしていると思う。真実に触れた詩・芸術は美しい。。


でも、本当に石は天上に還ってしまって、それだけでいいのだろうか。その瞬間にも石は一生懸命生き続けているのではないのか。  (つづく)


獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?

京都龍安寺といえば石庭である。ユネスコの世界遺産にも登録され、海外にも禅庭園として名高い。京都観光の定番でもあるこの石庭は、だれでも一度は行ったことがあるのではないだろうか。私も中学、高校の修学旅行で2度訪れたことがあるが、禅やら枯山水やらの本当の意味がまるでわからず、ふーんこんなものかといった程度の印象であった。

その後、一度も行ったことはない。しかし、禅の意味やらがようやく分かりかけてきたこのごろ、また行ってみたいという気もするし、いや、行く必要はないような気もする。ここの心境がまたややこしいところだが。

東西25メートル、南北10メートル。三方を築地塀にかこまれ、一面の白砂に異形の石15個が無造作に?配置してあるだけである。この天下の名園は、古今の研究家が様々な解釈を試みている。曰く「中国の故事、虎の子渡しの表現である」、曰く「どこから見ても1つは隠れるようになっている。残りは心眼でみよ」「どこから見ても同じ景色は一つとしてない。だから人間は真実をみることはできないのだ」等々。。方丈の縁側に腰掛けると、一目で石庭全体が視覚に入る。いわば小宇宙とみたてて自己を没入させるというわけである。

「しかし、案内表示に逆らうわけではないが、龍安寺は参道左に広がる「鏡容池」から巡りたい。寺の歴史の経緯をこの池庭から振りかえるのと目当ての「石庭」に思索の時間をたっぷり残しておく意味でも・・・・。」(小学館ウイークリーブック 日本庭園をゆく 2 より)

縁側に腰掛け、たっぷり「思索」するのもよい。そもそもこの枯山水の石庭は、高度に抽象的な表現だ。ベースとなる砂紋は大海原をあらわし、整然と平行に描かれる。これが15個の石組に近づくと、微妙な波紋となり、石の島に打ち寄せるかのようである。

これは、なにを意味するのか。「思索」してみよう。(つづく)

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「ゆるす」ことが幸せへの近道

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僕はあの悲惨な戦争を経験しているから、戦争や核兵器には絶対反対だけれど、ただ「戦争反対」と声高に叫ぶだけでは、いつまでたっても、平和は来ないと思うんだ。ニューヨークの9・11テロの後に、憎しみの輪が世界に広がったように。
だから、命を大事にし、なぐられても相手を許すという姿勢こそが必要だと思うんです。そして、それを子供に教えなければいけない。
2005年10月に、指揮者の小沢征爾さんと広島市で開いた「世界へおくる平和のメッセージ」という音楽会にも、そんな思いを込めたんです。7000人の観客を集めて、小沢さんが、フォーレの「レクイエム」を指揮し、僕は自作の詩を朗読してね。
「殺すなかれ、核兵器を葬れ、とのかけ声からは本当の平和は生まれなかった。そこで、私はこう提唱したい。人を心から愛するために、全てをゆるそう」と。
最後には、世界各国の子供たちが壇上に上がり、「草木を、動物を、そして人の命を愛しましょう」とメッセージを発信したんです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2007年7月11日 読売新聞 「時代の証言者 元気 日野原重明 21」より抜粋

日野原さんの書いたこの文章は、いまだに頭から離れない。
近年だけでも、9・11テロ、イラク戦争、イラク国内の自爆テロ・・と、暴力の連鎖はとどまるところを知らない。それこそ、「やればやり返す」の永遠の連鎖である。

欧米が主導してきた、歴史的な世界の流れは、まさに欧米の圧倒的な勝利の系譜であろう。イスラム世界は、十字軍以来、キリスト教世界に蹂躙され続けており、1000年来の血の怨念を保持している。あまりに非対称なので、イスラムの原理主義が台頭してくることになる。
テロ行為は断じて、いけない。しかし、歴史的に常に辛い思いをしているイスラムを思いやるハートは欧米側に必要であろう。

そこで、「ゆるす」というキーワードが出てくる。
「殺すなかれ、核兵器を葬れ、とのかけ声からは本当の平和は生まれなかった。人を心から愛するために、全てをゆるそう」と日野原さんは提唱するのである。
ここは、当然強者が度量をみせるべきであろうと思う。

ところが、困ったことに、ユダヤ教とそこから生まれたキリスト教もイスラム教も自らの神のみを信仰する一神教なのである。最初からして、「やればやり返す」のDNAを持っているようなものである。
(たかが人間同士で争ってなんになるのか。同じ地球の住人として恥ずかしい、と他の動物や植物が囁いている。)

このままでは、なにも変わらない。
では、どうすればよいか。

人が変わるのを待っていては、一生かかってもだめなものはだめである。
自分が変わればよいのである。人がたとえなんと言おうと、「ゆるす」のである。
無償の愛・慈悲でもって、「ゆるす」のである。大乗仏教では六波羅蜜の第一「布施」。キリスト教ではアガペー。いや、宗教なんぞ持ち出さずとも、「純粋な贈与」である。
(皆さん、これを習慣にしてごらんなさい。世の中180度変わります)

神々がさきわう極東の島国では、一神教とちがい、懐が深い。人々がなんだかぼんやりしているように見えるが、彫の深い理屈っぽい人々より可能性があるように思えてくる。

ほんとは、小泉さんあたりが、「ゆるす」ことをブッシュさんに進言でもしていれば、それこそ歴史に残ったのにと、思う。

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その3~意識の構造とは~

前回、無意識を含めた心の構造をトリニティー図(ボロメオの輪、三位一体モデルといってもいいか)として提示しましたが、今回より具体的に説明していきたいと思います。
早速ですが、「心/意識の構造」のモデルを下図 のように提示します。

Photo

左下がR:Real(現実界)
上が I:Imaginary(想像界)
右下がS:Symbolic(象徴界)
と名づけることにします(カッコ内は、ラカンの定義で、そこからイニシャルを拝借しました)。

Rは、リアルの名の通り、「自然」「モノ」「存在」とかをさします。私たちが「存在」を対象化すると、やおら「存在者」として意識に出現してきますが、R自体は意識では捉えることができない領域です。従って心/意識の構造としては、「無意識系」と名づけておきましょう。
このRには自己の接する環境(宇宙・自然界の森羅万象や他人)と、自分(心を生み出す肉体・脳=自然の分身たる自分のこと)の2種類があります。

IとSはそれぞれ心の「感情」と「理性」に相当する部分です。以前、前者を「感」、後者を「観」と定義しました。

心/意識の構造は、このR(無意識系)とIとS(意識系)の3つの輪が分かちがたく結びついているようです。結びつくということは、3領域が接触ないし結び目をなす領域があるはずです。これが「ボロメオの輪」の重なり合っている領域です。
このうち意識系の結び目I-S(IとSの結び目なのでI-Sと定義します)は前回定義した「(観)察」にあたります。

初回に、
「①「見る」・・外界や心の内部をじかに「感ずる」
 ②「観る」その1・・見て感じとったものを「考察する」
 ③「観る」その2・・心の内部のみで「思念する」

①は、「目で見る」に代表される、五感の感覚、感性の世界、③は、純粋に理性・知性・シニフィアンの世界である。その間の②は、いわば①と③の境界をなすシニフィエの世界なす。心のプロセスの基本は①→②→③と流れるようである。」

と書きましたが、これが、R(外界や心の内部)に接した後、①I→②I-S→③Sと流れるというわけです。

さて、ここからが私のオリジナルなところですが、意識は大変複雑な世界でとてもデジタルに分節化して表せないのですが、敢えてコンピュータの処理プロセスと仏教の「五蘊(色受想行識)」をアナロジーとして持ち込みます。

プロセスはこんなふうになります。
1.「色:現象系」=外部データを入力する(自然界、他人に接する)
  「識:想起系」=内部データを読み出す(記憶、知識を想起する、生理欲が起こる)
2.「受:知覚系」=データをメモリに記憶する
3.「想:表象系」=プログラムに従って演算回路で演算を行う
4.「行:判断系」=演算の結果を確定する
5.「色:表現系」=外部へデータを出力する(身・口・意で外へ働きかけを行う)
  「識:記憶系」=内部記憶装置へデータを書き込む(経験知として記憶する)

この1~5のプロセスのうち、1および5はRとのやりとりをなすところです。のこりの2から4が意識系そのもののプロセスであり、このプロセス毎に、 ①I→②I-S→③Sの流れが対応しています。これをマトリクス化したものが、図の「意識系」に示したものです。

なお前回、
①対象を知覚、体験、想像し、感情表現する(感じるの世界)
②認知、認識、思考、意味づけをして価値判断する(考察の世界)
③分類、分析、理解して概念・原理化する(観るの世界)

と書いたのは、①~③ごとに上の2~4のプロセスを対応させたものになります。

次回からは、いよいよ「無意識系」「意識系」が接する場である「非意識系」(悟り系?)を説明します。

獅子鷹

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