ワーグナー 歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲

 ワーグナーはドイツ・ロマン派の巨星で、いわゆる“未来の総合芸術”という一種のユートピア的芸術形態を目指し、個々の芸術要素(音楽、文学、舞踊・・)はドラマ(=楽劇)という総合形態に統合されるべきとしてその実現に奔走した希代の音楽家です。要するに、まず、従来の歌劇は堕落した、器楽音楽はベートーヴェンの第9をもって使命を全うした、個々の交響曲は無価値だと否定し去ります。そして、すべての芸術は、“ドラマ”という目的に奉仕すべきだというのです。これは、大作「ニーベルングの指環」4部作の理論的根拠にもなり、同時代以降の音楽芸術に甚大な影響を与えました。(ドヴォルザークも ブラームスに会うまでは熱烈なワグネリアンで、プラハで上演されるワーグナー物は欠かさず観賞しています)  とはいえ、この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、肩の力が抜けたというか、例外的にワーグナーほとんど唯一の大衆的な喜歌劇の...

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ヘパエアデップ

ヘラクレイトス(万物は流転する) パルメニデス(存在は理性である) ゼノン(アキレスの亀、パラドックス) エンペドクレス(四大、地水風火) アナクサゴラス(人間は食物の要素からなる) デモクリトス(原子) プロタゴラス(人間は万物の尺度、ソフィスト) ソクラテス(無知の知) プラトン アリストテレス ・・・...

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ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」

 序曲「ローマの謝肉祭」(ローマのしゃにくさい、フランス語:Le Carnaval Romain)は、エクトル・ベルリオーズが作曲した管弦楽曲です。なお、本籍はオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」(1838年)の第2幕の序曲であり、オペラ自体は失敗作とみなされて今日ほとんど演奏されてiいません。しかし、この序曲のみが単独で取出され、ベルリオーズの管弦楽曲の中では吹奏楽版編曲を含め今日最も頻繁に演奏されています。  19世紀後半、この曲を聴いたある人は「この曲は、一杯のアルコールに刺激よって、極度に興奮した巨大なヒヒが、跳ね回り、きゃっきゃと叫ぶ姿にしかたとえられない」と貶しましたが、どうでしょうか、高尚な謝肉祭なんてありえないことですし、かえって“お祭り騒ぎ”感を素直に伝えているようにも思えます。   曲は、“謝肉祭”のサルタレロの主題による序奏ののち、まずコールアングレがアリアの主題を...

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チャイコフスキー バレエ組曲「眠れる森の美女」Op.66a

 「このバレエ音楽は私の最良の作品の一つだと思っています。主題はとても詩情にあふれ、作曲しているあいだとても興奮しました・・。」 チャイコフスキーは、パトロンのフォン・メック夫人宛の書簡中で、1888年末~89年春にかけて猛烈な勢いで作曲した、バレエ音楽「眠れる森の美女」について高揚した筆致でこう書き綴っています。  ”素敵な王子のキスにより100年の眠りから目覚めたオーロラ姫はめでたく王子と結ばれる”この、ハッピーエンドを絵に描いたようなシャルル・ペロー原作のおとぎ話に基づくバレエ音楽は、1890年ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演されました。その評価やいかに!?というのも、チャイコフスキーは最初のバレエ音楽「白鳥の湖」を1876年に作曲し、世に問いましたが、まったく受け入れられずに失敗に終わっていたからです。 なぜか。  実は、当時のバレエといえば、美しく舞うきれいな女の人を見に行く...

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ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ

   本日は「ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ~」と題してロマン派音楽の「名所」を巡っていきたいと思います。前半は「北イタリアから音楽の都ウイーンへ」という西洋音楽のメイン・ストリートを歩いてみたいと思います。後半は、どちらかというと西欧主流派に抑圧されていた東欧やロシアの、民族主義が発露した後期ロマン派音楽に焦点を当てます。 【1️⃣自由な表現を求めて ~前期ロマン派の勃興~】 歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲/ロッシーニ(1792~1868 イタリア)  ロマン派とはどんな意味なのでしょうか?皆さんご存知ですか?いろいろな解釈がありますが、一言でいうと、「人間の自由な表現を重んずること」といっていいと思います。よく対比されるのが、「古典派」音楽ですが、こちらは和声や対位法による規律、厳格な表現形式といったイメージですが、ロマン派は、...

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メンデルスゾーン 劇音楽「夏の夜の夢」より序曲(Op.21)、スケルツォ・間奏曲・夜想曲・結婚行進曲(Op.61)

 皆さんは現実と夢の区別をつけられますか?普通に考えれば、つけられますよね。普段の日常生活が現実だし、眠っているとき見るのが夢で、ちゃんと頭ではわかっています。でも、たとえば、憧れの人に出会っただけで「夢」見心地になるし、夢で憧れの人とデートして「夢よ覚めるな=現実であってくれ~」と願ったりします(あるいは悪夢があまりにもリアル(=現実的)で目覚めが悪い・・)。つまり、現実と夢は白黒に峻別できるものではなく、いつでも隣り合わせあるいは溶け合って共存している事態だといえないでしょうか?つまり、「現実/夢=人が体験できるこの世の世界」と定義できます。ところが、「この世」とくれば「あの世」があるはずです。いわば人が絶対体験できない、あちら側の世界です。しかし、わずかながら人はあちらの世界を垣間見ることができます。唯一、「夢」を媒介にして…。  シェークスピアが書いた戯曲「夏の世の夢」は、まさに「...

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ベートーヴェン 交響曲第8番ヘ長調Op.93

 ベートーヴェンは、ナポレオンのロシア遠征のあった1812年、二つの交響曲を完成させました。かたや、5月に完成したイ長調第7番。こなた、10月に完成したヘ長調第8番。1814年2月27日に両者同時に初演。7番のほうに人気が集中したのに対しベートーヴェンは「聴衆がこの曲(8番)を理解できないのはこの曲があまりに優れているからだ」と語ったというエピソードがあります。ベッカーが「第7は高い山へ登る努力をあらわし、第8は頂上での幸福な歩みをあらわしている」と評しましたが、第7に関しては、情熱と勢いで野生的に登りつめたという方が当たっているように思いますが、第8に関しては正鵠を得ているように思います。交響曲第8番は、ベートーヴェンの交響曲の中では比較的小規模で、従来の古典的な形式に則っていますがが、独創的な工夫と表現にあふれているといえます。 第1楽章 Allegro vivace e con br...

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シューマン 交響曲第3番変ホ長調「ライン」Op.97

この世には大別して“現実主義”の人と“理想主義”の人がいます。実際には両者が同居していて、行きつ戻りつうろうろしているのがふつうの人間のあり方ですが、ロベルト・シューマンは完全に“理想主義”を生涯にわたって貫いた人でした。理想は、ある意味現実を超えたユートピアであり、理想主義は、理屈より感性、目に見える現実より目に見えないファンタジーを貴ぶ当時西欧で盛んだったロマン主義に合致します。シューマンはまさにロマン主義を音楽で体現した人でした。 ロマン派の巨匠シューマンが1830年に20歳になって法律家ではなく音楽家を目指すことを決意した時、母親に訴えた、なりたい職種のリストは①指揮者、②音楽教師、③名ピアニスト、④作曲家の順でした。つまり、音楽家として成功するとすればこの順番が成功の指標となり、なりたい優先順位だというのです。しかし、それから10年以上経った脂の乗り切った30歳台後半に...

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シベリウス 交響曲第1番ホ短調Op.39

シベリウスは1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれ、9歳からピアノ、15歳からヴァイオリンを開始。1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。1889年、ベルリンに留学。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事。そして故郷に帰り、母校で教鞭をとるかたわら、作曲を本格的に開始します。   シベリウスは交響曲第1番を作曲する以前に、民族叙事詩「カレワラ」に基づき、独唱と合唱を伴うカンタータ風の「クレルヴォ交響曲」(1892年)を作曲していました。「クレルヴォ交響曲」から本作が作曲されるまでの間に器楽のみの「音楽的対話」という標題交響曲が計画されましたが放棄されています(一部のモティーフが交響曲第1番に盛り込まれ手います)。すでに交響詩の分野では愛国心の結晶ともいうべき「フィンランディア」を初め、「トゥオネラの白鳥」を含...

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ブラームス 悲劇的序曲Op.81、交響曲第3番ヘ長調Op.90

“四苦八苦”という言葉があります。この世は苦しみだらけ、という仏教の用語ですが、四苦とは“生老病死”の4つです。最大の苦しみは“死”ですが、“生”きることも“病”んだり“老”いたりしながら死に至るわけですからすべて“苦”というわけです(ちなみに、四苦八苦=4×9+8×9=108=大晦日の除夜の鐘で落とすべき煩悩の数)。話がまだらこしくなりましたが、ブラームスもこの四苦に苛まれつつ、時には翻弄され、時には払拭しかけたがやっぱりダメだったり・・、と見事なほどに自身の人生に真摯に向き合いながら、噛めば噛むほど味が出る珠玉の作品群を後世のわれわれに残してくれました。   今回の悲劇的序曲と交響曲第3番も、そんな味わい深い大傑作です。   この2曲は、1880から1883年にかけてという、ブラームスの音楽人生の最充実期に書かれましたが、彼の内面における、ある重大な共通点が...

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ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調Op.88

「満ちあふれる楽想をただちに書き取ることができさえしたら。しかし、ゆっくりとしか進まない。手がついていけない・・・(作曲が)思いがけなくたやすく進んでおり、旋律が私の中から流れ出す」。第7交響曲を世に送り出して大成功を収めた後、ドヴォルザークは、1889年8月の友人宛てへの手紙で、作曲家人生における収穫期を迎えた心情を素直に吐露しています。 ドヴォルザークはふつうブラームスとともに標題音楽全盛の19世紀後半に、絶対音楽を守り通した音楽家として評価されています。しかしブラームスと異なり、オペラなども作曲しており、そのために晩年には師であったブラームスとの間が気まずいことにもなっています。純粋な“ブラームス学徒”たるべきドヴォルザークがなんで標題音楽を・・・。この理由は、作曲の出発点がワーグナーの影響であること、リストなど標題音楽の申し子である交響詩の影響を受けたこと、などが考えられます...

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チャイコフスキー 交響曲第6番ロ短調「悲愴」Op.74

1888年秋に第5交響曲を初演した後、チャイコフスキーは西欧や新大陸への演奏旅行へでかけたり、バレエ「眠りの森の美女」やオペラ「スペードの女王」を作曲したりで、シンフォニーの作曲から遠ざかっていました。そうこうするうちに享年である1893年に突入します。この年の4月の友人への手紙にこうあります。「1つの交響曲を完成したが、突然気に入らなくなったので破いてしまいました・・。いま私は新しい交響曲を作りましたけれど、これは決して破いてしまいますまい」このうち前者がピアノ協奏曲第3番の土台となり、後者が“悲愴交響曲”となりました。 この曲は何を表現しようとしているのでしょうか。“悲しくも痛ましい”を意味する「悲愴」のタイトルは、初演後に弟モデストの提案に賛成して譜面に書き込んだことになっています(異説もあるようですが)。また、1893年早春の着想段階で「誰にも解き難いプログラムのついた交...

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ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調

1803年からの数年間、ベートーヴェンは、“ハイリゲンシュタットの遺書”(1802年)を書いて自殺未遂まで起こしたどん底から復活していました。フランス革命以来の啓蒙精神を体現したナポレオンに触発されたヒロイズムを描いたのが、交響曲第3番「英雄」(1804年)。耳疾をはじめ次々と降りかかる不幸な運命を不屈の精神で乗り越えた記念碑的作品が、1805年からほぼ3年掛かりで完成させた交響曲第5番「運命」(1808年)。運命を克服した“熱っぽさ”を癒し、ハイリゲンシュタットの自然に回帰したのが、交響曲第6番「田園」(1808年)。といった具合に、この間に奇跡的な質と量を伴った“傑作の森”がもたらされます。 この“中期ベートーヴェン”には、ハイドン・モーツアルト的な古典主義から、来たるべきロマン主義への質的転換がみてとれます。すなはち、作曲というものがベートーヴェン個人の手で、音楽史上初めて、教...

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ブルックナー交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」

 アントン・ブルックナーは1824年オーストリアのアンスフェルデンに生まれ、11歳より父からオルガンの手ほどきを受けてめきめきと上達。リンツ郊外の聖フローリアン修道院付属教会のオルガン奏者を30歳まで続けています。その後、ゼヒターに和声法と対位法を学び、キツラーに管弦楽法を学んだ際ワーグナーを知り、ワーグナーに傾倒、研究しています(なお、交響曲第3番はワーグナーに献呈されています。ワーグナーは譜面を見て感動し、「私はベートーヴェンに到達する者をただ一人知っている。君だよ」と賞賛したとのこと)。1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院の教授に就任。この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲書きに集中させました。 今回採り上げる交響曲第4番は1874年1月2日に作曲を開始し、同年11月22日に第1稿が書き上げられました(その後、ブルックナーの常として、本人や弟子などによる改訂が...

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ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調「新世界より」Op.95

ドヴォルザークは9つの交響曲を残しましたが、なんといっても後期の3曲が有名で、第7番、第8番、そして本日採り上げる第9番「新世界より」の順に質、人気度、普遍性共に高くなっていくといえます。師匠 ブラームスの第3交響曲にならって、ドイツ新古典派の交響曲の後継をゆるぎないものにした第7番は“ドイツ的”。ボヘミアの明るい日差しの田園の真っ只中にいるかのような第8番は“ボヘミア的”とすれば、第9番「新世界より」は○○的なのでしょうか? 「新世界より」の副題をつけたのは、ほかならぬドヴォルザーク自身です。ご存知のように、黒人霊歌や原住民アメリカン・インディアンのメロディなどに触発されているとすれば“アメリカ的”。新世界であるアメリカから故郷ボヘミアへのメッセージとすれば、“アメリカ-ボヘミア的”とでもいえましょうか。しかし、わたしはあえて“普遍的”といいたいと思います。 アメリカ滞在...

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“福島”か“FUKUSHIMA”か?

今日のNHKラジオで、あるミュージシャンがこんな趣旨の発言をしていた。 「福島を表現するとき、“福島”では、地震・津波・放射能でダメージを受けた特定の場所の意味にとどまってしまう。わたしは“FUKUSHIMA”と表現したい。こう表現することで、福島の人々や地域の痛みの共有や復興への思いだけでなく、“HIROSHIMA”同様、二度とこのような過ちをおかしてはならないというメッセージとして世界に発信するという意味を込めている...」 基本的に賛成である。 “このような過ち”とは、単に、想定外(この言葉、免罪符として乱発されていないか)の地震・津波で、あの甚大な放射能汚染を引き起こし、美しい福島を死の土地(風評被害を煽っているのでは全くない!)をにしてしまったからだけではない。本質的には、原子力発電を推進してきた行政のあり方・エネルギー政策さらにはグローバル経済に完全に組み込まれている経済...

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 ブラームス 交響曲第4番ホ短調Op.98

フルトヴェングラーはブラームスを評して「非常に客観的な音楽家」といい、「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。この偉大な指揮者は、 ブラームスの音楽は、彼の哲学そのものであると喝破したのです。ブラームスは同時代のワーグナーとは対照的に、オペラや標題音楽などストーリー的なものや表象的なものはまったくやらずに、いわゆる“絶対音楽”を掘り下げています。絶対音楽について、ある音楽のプロは次のようにいっています。「絶対音楽は、こんな気分で・・とか、作曲者の哲学を表現しているので、解釈は全面的に聴き手にゆだねられます」。というわけで、ブラームスを聴くときには、硬く言えば、いずまいを正して彼の哲学を理解し、やわらかく言えば、表出情緒を素直に予断なく味わうのがよろしいといえると思います。 では、 ブラームスの哲学や情緒とはどんなも...

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私的つぶやき【解題】

浅間山 天地のさけめ 霊たなびく  -長野へ帰郷するたびに、ゆったりとした噴煙をたなびかせる活火山”浅間山”。そこは、紛れもなく、生きた山が息をしている真っ只中の風景でしょう。まさに、見えない大地から、生気がこの世に贈与される瞬間のこと。すなはち、霊の発出・生起の瞬間。私たちの呼吸の瞬間も同じことです。 朝顔や 迷路の先に かれんに咲け  -朝露に濡れた朝顔が、複雑に長くからんだ華奢な茎の先に可憐に花をつけている。決して自己主張でない、ありのままの美しさ・・。私の吹くフレンチホルンも、かくありたいものである。 夏の熊 巨体ゆらせば あせしたたる  -日本一暑い街、私の住む埼玉県熊谷。願わくば、ホッキョクグマになりたい・・。 オニグモと 真剣勝負し とらえられ  -これは、自宅の周りで日常的に繰り広げられる風景です。でも、いつも彼らが一枚上手です。これが真実です。 しめ縄の ...

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チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調Op.64

チャイコフスキーは、感性豊かなひとでした。感性というと喜怒哀楽のありとあらゆる情念がありますが、どちらかというと悲観的で暗い情緒を好む人でした。これは彼の神経質なところのあるパーソナリティもさることながら、ロシアという国のどんよりとした、陰鬱で寒い気候の影響や、ロシア革命前夜のブルジョア・労働者階級等の社会的不合理による自己実現の難しさ、当時の強国トルコのスラヴ民族圧迫や露土戦争といった暗い国際情勢も多分に影響しているはずです。いまにも押しつぶされるような内外の陰鬱な環境の中で、チャイコフスキーは、作曲にせめてもの自己実現を託したといえるでしょう。 チャイコフスキーの後期3大交響曲の真ん中にあたるこの曲は、前後を性格付けの明瞭な2曲に挟まれて、なにか中途半端なものと言われることが多いようです(後述のように、チャイコフスキー自身も最初はこの曲を成功と認めませんでした)。前には、抗うこと...

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ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調Op.70

ドヴォルザークは、ブラームスに見出され、世界的な作曲家として認められました。その恩もあり彼はブラームスを師と仰ぎ、敬愛していました。あるとき、ウイーンで師の新作の交響曲をピアノで弾いて聴かされました。そしてベルリンで師自身の指揮での演奏(1884年1月)に立会い、まことに衝撃を受けたのでした。交響曲第6番をイギリスで認められ、新たな交響曲をロンドンから委嘱されていたドヴォルザークは、このような状況下でこの交響曲第7番(以下ドヴォ7)を1884年末から翌年にかけて書き上げました。 ブラームスが衝撃を与えた曲が交響曲第3番。周知のようにドヴォ7はブラ3と楽章構成など似通っており、また随所にブラームスの旋律やモチーフが感じられ、師の大きな影響が認められます。形式を重んじるドイツ「新古典派」の重鎮の後継という意味では、この曲はさしずめ「ブラ5」にあたるといっていいかもしれません。おや?5番といえ...

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シューマン 交響曲第1番 「春」 変ロ長調Op.38

シューマンは、ロマン派音楽の巨頭ですが、音楽のみならず、その生涯そのものがロマンチックな「ファンタジーの世界」にいたような人でした。ロマン派(とくにドイツ・ロマン派)とは、音楽のみならず、建築・絵画・詩・散文等の芸術全体に起こった現象です。音楽以外は、18世紀末のベートーヴェンの頃には早くも全盛期でしたが、こと音楽に関しては、少し遅れて19世紀前半のシューマンを以って華やかな頂点に達したといえます。 ザクセン地方の成功した書店の子として生まれたシューマンは、生まれながらにして全盛期の詩や文学のロマン主義に熱っぽく親しんでいました。彼は、ロマン派特有の現実を超えた詩的な世界を詩や散文で表現できることを知っていましたが、それでも言語表現から来る限界が付きまといます。しかし、音楽は言語をも超越した無限の表現可能性のあることを悟っていました。どうやらシューマンが音楽にのめり込むのは必然だった...

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メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」 イ短調 Op.56

  メンデルスゾーンは、あの「結婚行進曲」や「メンコン」と称されるヴァイオリン協奏曲のように甘酸っぱくもロマンチックなメロディで知られたロマン派音楽の神童です。一年遅れてこの世に生まれ、同時期にロマン派音楽を体現したシューマンはメンデルスゾーンを「新たに現れたモーツアルト」と絶賛し、この友人を生涯あたたかい眼差しで見守りました。 ユダヤ人の裕福で教養ある家庭で生まれたメンデルスゾーンは、子供の頃から一流の家庭教師の下であらゆる教養を身につけましたが(ユダヤ人は差別で公立学校へ行けないという事情があったことに留意)、とりわけ音楽の才能は並外れており、7歳にしてピアノやヴァイオリンは大家のように弾きこなすわ、11歳にして年間50曲以上の作曲をこなすわで、12歳のとき出会ったあの老ゲーテ(かつてベートーヴェンを気難しい男と評した)をして「友人」と言わしめたほどでした。厳格な父は、経...

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ブラームス 交響曲第2番ニ長調Op.73

ブラームスは、ベートーヴェンほどに烈しい性格でもなく、モーツアルトほどにずば抜けた天才ではありませんでしたが、一つの音たりともおろそかにしないナイーヴな努力家でした。一つの楽想を丹念に磨き上げ、尊敬してやまないバッハとベートーヴェンの築いた古典派の流儀をベースに、ある程度の月日をかけて綿密に推敲を重ねて曲を作り上げるのが常でした。その最たるものが、あの交響曲第1番です。完成が1876年。時に43歳。ブラームスが最初にシンフォニーを書こうと思い立ってから20年以上。スコアが最終的に固まるまでに、推敲に推敲を重ねて15年はかけています。あまりに堂々としていて、隙がまったくないといっていいほどないので、人によっては息苦しく感じるほどです。しかしまあ、ベートーヴェンも罪作りな人です。シンフォニーというジャンルでその当時芸術的にできることをほとんどやりつくしてしまったのですから・・。ブラームスにとっ...

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慧玄さん曰く「請う其の本を努めよ」

昨日、東京国立博物館で開催されている妙心寺の特別展を観に行った。開山の無相大師関山慧玄(かんざんえげん)の没後650年を2年後に控え、これに因んでのものである。 私は慧玄さん(親しみを込めてさん付けで呼ばせてもらう)が大好きである。 慧玄さんは私の同郷信州の出で、鎌倉から南北朝にかけての臨済宗の禅僧である。30歳で鎌倉建長寺で南浦紹明(大応国師)に師事。師示寂後、建長寺における開山蘭渓道隆五十年忌出席中、京都に傑物在ると聞くや否や京都大徳寺に向かい、宗峰妙超(大燈国師)に参禅する。そして53歳で開悟し、宗峰がこれを印可証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。 もう悟りを開いたのだから、慧玄さんは自由である。悟後の修行に美濃伊深の里に草庵を結んで隠棲していた(現在の岐阜県美濃加茂市。この場所には現在正眼寺という道場があり、巨人軍の川上哲治監督もここで坐禅修行をしている)。この間、慧...

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フィンランディアの普遍性とは

フィンランディアは交響曲第二番とならんで、シベリウスの代表作である。いうまでもなく、19世紀末以来の帝政ロシアの圧政からの独立を象徴するフィンランドの国民的楽曲であると同時に、独立後のスターリンなどによるソ連の露骨な圧迫時にもフィンランドの心の拠り所となってきた曲である。しかも、今日ではフィンランドはもとより、欧米、日本を始め世界で人気を得ており、当のロシアでさえ演奏されているのである。 私は中学生のときに初めてこの曲を聴いたが、なにやら底知れぬ怖さに圧倒され、中間部の旋律の美しさに圧倒され、最後の盛り上がりに圧倒されたことを覚えている。もちろん、作曲経緯や曲想の理解など知る由もない時分である。 それ以降、この曲がなんだか自分の一部であるような感覚がどこかにあり、演奏したり聴いたりするたびに不思議な感覚に襲われるのである。好きとか嫌いという感情を超えているのだ。これは一体何なのか。。演...

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呼吸はこころである

人は生まれて死ぬまで「呼吸」のお世話になる。おぎゃーと声を発する前に人生最初の「息」を吸い、「この人生は有意義な(あるいは無意味な?)人生であった」と呟き人生最後の息を吐いてこの世を去る。この間、人は休むことなく呼吸を繰り返す。感情の乱れから過吸状態になり、無意識にため息が出てしまう。こころを落ち着けるために、努めて深呼吸をする。。無意識・意識に関わらず、呼吸は私たちの生活にぴったり寄り添っており、こころそのものといっていい(実際、「息」は「自」らの「心」と読める)。 息は「呼」と「吸」の繰り返しからなる。 これを振り子の運動に喩えてみる。振り子が周期運動をするためには、錘を真下から斜め上に引き上げる必要がある。この行為が人生最初の「吸」である。息をいっぱいに吸うと次の瞬間息を吐く「呼」に転ずる。この転換点が振り子運動の「端」である。この端では錘は運動自体を一瞬静止する(エネルギー保存...

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今年の漢字は「変」

恒例の1年の世相を漢字1文字で表す2008年「今年の漢字」が「変」と決まったそうである。なんでも「change(変革)」を訴えたオバマ氏が次期米大統領に選ばれたことや、日本の首相がせわしなく短期間で交代したことなどのほか、サブプライムローン問題に端を発した世界経済の大変動などが理由だそうである。 「変革」への渇望、「変化」疲れ、「変てこりん」な世相といったところか。 でも、昨年の「偽」のようにストレートに納得するインパクトが足りないようにも思う。なんというか、「変」は実はいつでも身近にあるようなあたりまえの事態だからか。そう物事は常に「変わって」いるのである。 ご承知のように、ものはすべて振動している。今年のノーベル賞受賞理論「対称性の破れ」により誕生したとされる宇宙内にあって、動いているものは動いているし、静止しているものの実は振動しているという意味で動いている。場合によっては、化...

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幸福の家族モデルとは?

先日の読売新聞人生案内(6/19)は、「夫への愛情が冷めた、どうしたらいいか?」というものだった。これに対する元女子マラソン選手の増田明美さんの回答があまりにも見事だっだので、紹介したいと思います。 問いの要旨「30歳台主婦。結婚10年。私は細かい性格。夫はマイペース。ここ数年夫の嫌な面(靴や服脱ぎっぱなし、おなか出る・・)ばかり目立ち、好きという気持ちが失せ、小言ばかり言っている。ただ仕事はまじめ、育児には協力的。子供に好かれる。何年たっても好きでいられる男性が他にいたのではと、最近後悔が募る。愛情が冷めたというだけで離婚するのはだめか」 回答要旨「父親としては満点。でも気になることは思い切って言おう(子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて、健康のために少しやせて・・)。「愛情が冷めた」とあなたは言うが、「恋愛感情」が冷めただけでは。夫や子供に愛情を感じることは多々あるで...

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出雲大社に詣でる3

本殿前で一通りの説明を受けた後、改めてざっと内部を覗き込む。八雲の天井絵は正面の蔀(立ち入り禁止線)から身を乗り出さないとよく見えないので、寝そべったり、倒れこみそうになる人もいた。それより気になるのは、大黒柱右奥の御神座である。もっとも、本殿正面からは中央の大黒柱と右側の側柱を結ぶ板仕切りによって直接は見えないようになっている。蔀の最左端からわずかに空間の一部が覗けるのみである。 まあ、主は仮殿へ引っ越したのだから、霊界の盟主の気配はなく、もぬけの殻という印象であった。ほんとうになにもいなかった。(だから、俗人が入れるのだが。) ということは、普段はやはり大国主命が「いる」のだろうか。そう「いる」のである。八百万の国日本では、古くから自然や森羅万象に神が宿ると信じている。水に水神、風に風神、木に木霊といった具合に目に見えるものにはそれを成り立たせる「何か見えないもの」がはたらいており...

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出雲大社に詣でる2

バス停横の鳥居から本殿や拝殿(今は仮本殿として大国主命が仮住まい中)のある境内「荒垣」まで約数百メートルあり、参道が木立の中をなだらかに下りながら一直線に伸びている。まるで、荒垣に吸い寄せられるようにただひたすら歩く。すると、目指す本殿特別拝観の行列が荒垣正門の外まで50メートルほどはみ出しているのが見える。この列の最後尾に並んだのが、8:30過ぎ。 この日の拝観開始は9:30からであるが、もう前倒しで受付は始まっているようだった。並ぶや否や、ホッとしたのか眠気・空腹・頸痛が復活。加えて、雨が降り始めた。しかも小雨が降っては薄日が差すという不安定な天気。「大黒様」もちとご機嫌ななめか。(アパート仮住まい中に、改築中の我が家を他人に覗かれるなんていやだもんなあ。でもそこは霊界の盟主。喜んで受け入れてくれるだろう) 列は1時間ほどで本殿前へ進み、本殿前の八足門脇の受付テントで記帳を済ま...

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出雲大社に詣でる

先日、思い立って出雲大社に詣でた。出雲大社では、今年から平成25年にかけて、60年に一度の国宝本殿の屋根の葺き替えなどの改修を行っており、先月4月20日には祭神の大国主命(大黒様)を仮殿へ移す「仮殿遷座祭」が行われ、主が留守になった本殿を拝観できるため、ちょっと興味を引かれたのである。 出雲大社は一生に一度は行ってみたいと思っていたし、60年に一度の本殿拝観のチャンス(40代の私にとって今後事実上もう無い)という俗っぽい興味もあった。また、割子の出雲そばや地酒などに舌鼓をうちたいという本来!?の目的もあった。 大丸地下で「すし鉄」の鉄火巻きを買い、夜7時すぎに東京八重洲でスサノウ号という夜行バスに乗り、揺られること12時間。翌朝7時すぎに出雲市駅前に到着。朝飯も食べず、睡眠不足を取り戻す仮眠もせず、寝違えて痛めた頸をさすりながら、すぐに、大社行きの畑電バスに乗り換えた。目的は単純明快...

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私的つぶやき

浅間山 天地のさけめ 霊たなびく 朝顔や 迷路の先に かれんに咲け 夏の熊 巨体ゆらせば あせしたたる オニグモと 真剣勝負し とらえられ しめ縄の 巨木堂々 土俵入り 獅子鷹...

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その6~判断系非意識~

最後は、「行:判断系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、前段階で「想:表象系」が大活躍して(コンピュータではプログラムを実行して)いますが、その演算結果を確定させる段階です。 ここで、判断系の非意識として、「布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の概念を提示したいと思います。まず、判断系非意識「布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の入出力関係を整理しておきます。                        リアル(環境、自分)【色:表現系、識:記憶系】                            ↑      ↑      ↑ 戒     →定     →智慧   → 布施/愛→共感/慈悲→真理表現【判断系非意識】 ↓↑     ↓↑         ↓↑       ↑      ↑      ↑  体験...

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その5~表象系非意識~

さて、いよいよ「想:表象系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」後、「受」:知覚系(INPUT)が生起し、知覚系非意識(直感→洞察→直観)を介して知覚系意識(知覚→認知→分類)が表面化します。これは、いわば、リアルとの接触をこころが了解した段階です。コンピュータでは、データをメモリに格納した段階になります。 次に、いよいよこころのメタプロセスのメインイベントである、「想」:表象系(データを読み出してプログラムを実行する段階にあたります)になります。         ここで、表象系の非意識として、「戒→定→智慧」の概念を提示したいと思います。戒・定・慧といえば、「三学」といって仏教における「覚りへの道」そのものですね。まず、表象系非意識「戒→定→智慧」の入出力関係を整理しておきます。                  ...

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その4~知覚系非意識~

だいぶ間があいてしまい、失礼しました。さて、いよいよ、「悟り系」??について仮説を進めてみます。まずは、左図をよく見てください。前回の「無意識系」と「意識系」の中間に「非意識系」をピンクで挿入しています。左側のボロメオの輪のうち、無意識系Rと意識系(I(感) → I-S(察) →S(観))の重なり合う部位(R-I → R-I-S →S-R)が「非意識系」です。意識系がわれわれの心に立ち現れる(つまり、現象として分節化・差異化・非対称化される)以前の、「世界がいっしょくた」の差異のないいわば平等の世界、つまり、対称性を備える(現象前のこの段階で、現象後に分節化する対象はすべて同じ資格をもつという意味、すなわち入れ替え可能)というのが、この「非意識系」です。  初回に、「つまり、最終的には意識世界①、②、③各々について、それ以前の世界があることを言いたい為なのですね。 これを...

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無意識の音楽

週末に、所属するオーケストラで「オーケストラワークショップ」という催しがありました。これは地域の文化活性化への貢献を目指して、熊谷市近隣の小中学生のプレイヤーと所属オケのメンバーが一体となって協力し、短期間で(たった4回の練習!!)オケの名曲演奏に挑戦し、成果を発表するというもので、今回で5回目の試みで、着実に定着化しているようです。 今回のプログラムは以下の通りでした。 第一部 ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より前奏曲 ビゼー「アルルの女」第一組曲より前奏曲、メヌエット 第二組曲よりファランドール 第二部 ドヴォルザーク「スラヴ舞曲第8番」 チャイコフスキー「白鳥の湖」より情景、終曲 「まだ大人の音楽には慣れていないが、純真でひたむきな小中学生」と「経験だけがたより?のよく言えば多士済々、悪く言えば烏合の衆?たるオケメン」のインテグレーションをする指揮者...

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悟った心とは?

悟った心を喩えて、「大円鏡智」といったりします。「外」たる外界をそのまま写し、「内」たる心の内奥をあるがままに写す。大円のようにまろやかな、静謐なる、永遠に穢れることのない鏡というわけです。鏡の字は「金」ヘンに「竟」。「土」ヘンに置き換えると「境」ですからまさに「境目」を表しています。きれいに磨かれた鏡面が全く見えないように本来鏡自体に「自性」はありません。ただただ、「境目」として(いわば媒介として)「内」「外」をそのままに写すのみです。 ところが、ほとんどの人は「悟って」いません。つまり、曇っていたり、割れていたりします。そうすると、本来の「内」「外」がよく見えなかったり、全く違うように見えたりします。その結果、安全カミソリで顔を切ってしまったりすることになります(よくやるんですよ)。 では、曇らないように自分の鏡(心)を磨くとはどういうことなのでしょうか。 2つの例を挙げます。 ...

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誰でも仏になれる?

キリスト教やイスラム教(ユダヤもそう)世界で、「誰でも神になれる。もちろん僕も!」などと呟いたとたん、「お前、気が狂ったか」と言われるだろう。しかし、日本で、「誰でも仏になれる。もちろん僕も!」といっても、それほど違和感はない。同じ「宗教」を語っていても、この違いはどこから来るのだろうか。 この違いについて「対称性人類学」を実践されている中沢新一氏は、キリスト教は「信仰」。仏教は「信心」。と言及されている。なるほど言いえて妙である。 神とその受肉者たるイエスを「信仰」するのが、キリスト教。ここでは「主体」である「自己」が「客体」である「神」を絶対的に「仰ぎ見る」という構図が見えてくる。自己と神の間に超えがたい溝があるかのごとくである。 これに対して、仏教は「信心」。自らの心身を見つめ、魂を磨くうちに心のうちに仏を見出せる、すなわち「自ら仏になれる」というのである。自己と仏の間には何の...

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西洋哲学の限界とは?

新年早々恐縮ですが、私は、西洋的な「哲学」というものになじめません。どこか、限界をかかえているように思います。限界まではあらゆる分析・思考を駆使して、問い詰めるわけですが、いよいよ到達できないとなると、「語りえぬものには沈黙するしかない」(ウィトゲンシュタイン)。まあ、ブッダも哲学を語るときは「無記」というのですけれど。。 まあ、理知で世の中のあらゆる原理原則を導き出そうと苦悶することは、世の中を理解するために必要だと思いますが、どうしても理解を超えたり、認識不可能な事態が世の中には多いわけで、こういう事態を哲学の対象にしたとたんに、「形而上学」なるものに祭り上げられ、白い目でみられるというわけです。 たとえば「存在」をどう認識するかなんかがそうです。純粋思弁という「内部」にしかないような形式でいかに「存在」などの「外部」を認識をするかなどという問題の立て方をして、アポリア(解決困難な...

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宗教って何?

ある雑誌に、町田宗鳳氏と鎌田東二氏の対談が載っていた。読み進めると、「宗教をどう説明するか」というくだりで両氏が概略次のように述べられていた。 町田「二つの円を描いて、それぞれ心と身体を表す。宗教とは二円の重なった部分。この重なりの部分が大きいほど生きていて楽しいし、「ありがとう」という気持ちも湧いて来る。・・現代人はこの二円が離ればなれになっている。・・」 鎌田「心はウソをつくけど、体はウソをつかない。それと魂の関係を考えるのが宗教的レベルの話。・・ウソをつかない身体と、ウソをつけない魂がどうやって調和のある関係をつくっていくのかというのが一つの修行である。人間の心と身体と魂の関係をクリアにして、できるだけありのままの状態、ウソをつかない状態に近づけていくことが大事。」 ふたりの会話を統合して解釈すると、こうなる。 「宗教とは、優れて人の心身をどう捉えるかにつきる。心身は切り離す...

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今年の漢字は「偽」

2007年の世相を表す「今年の漢字」に「偽」が選ばれた。老舗ブランドの相次ぐ原材料偽装、賞味期限偽装などの発覚や泥沼の年金問題などが理由という。庶民的には至極納得のいく結論ではある。しかし、よくよく考えてみると、あの雪印事件だって同じ偽装事件である。今年発覚した企業も知らぬわけがあるまい。本来ならいつでも襟を正せたわけである。「他山の石」という教訓は絵空事ということか。これでは、「悪いことをしてもばれなければいい」というのが人間の常識ということになる。。そしてばれたら「悪いやつだ、許せん!」「す、すいません」そして、沈静化したら、またぞろ。。 とはいえ、悪いことはしていないという人ももちろんいる。「悪いやつだ、許せん!」と多くの人が思う。多数派であろう。正しいことをしていればOKで悪いことをしたらNGということか。では「正しい」とか「よい」とはどんなことか。「悪い」とはどんなことか。皆さ...

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龍安寺の石庭の意味とは?(その4)

「大海原」=「無機物=物質」 「15の石」=「有機物=生命体」 と構造化できないだろうか。ということだった。 これまで出てきた事項を簡単にまとめてみよう。 ①「大海原」=「無機物=物質」   ⇔ 「さとり」「空」「存在」       ↑                 ↑         【相対立/矛盾する関係】       ↓                 ↓ ②「15の石」=「有機物=生命体」 ⇔ 「まよい」「煩悩」 ②が、人間が通常おかれている事態である。なんの変哲もない。ところが、「人間とは何か」「存在とはなにか」「生きる意味は」と問い始めた人は、うまくいくと①の世界に到達する。すると、物質である脳・からだのはたらきとして生命現象/こころが、存在のただなかかからまよえる「存在者」が、矛盾を孕みながら現出してくることが分かってくる。②は①という実相があって初めて、...

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龍安寺の石庭の意味とは?(その3)

この地球上で「一生懸命生きる」ことは「煩悩であり、幻想なので」意味はないと言い切る人も有名な仏教学者などにもいる。「人生はもともと意味などないのだ」と。 ほんとうに、そうなのだろうか。 「物質(マテリアル)」は、実に多様な意味を含む概念である。マクロでは「もの」「自然」「宇宙」「森羅万象」などと言い換えることもできる。ミクロでは、「素粒子の離散集合」とでもいうのだろうか。一般的には、「熱力学第二法則」にしたがい、閉じた系であれば系内の物質のエントロピー(乱雑さ)は増大する。すなわち、形あるものは崩壊し、濃度の差異があれば最終的には混ざり合い均一化する方向に物事は進行する。(宇宙は閉じた系か?膨張しつづけるか、いずれ収縮に転ずるか?といった議論は措く) ところが、わが地球には「生命体」なるものが存在する。人を含む動物・植物・微生物・ウイルスなど有機物である「生命体」は何の因果か、エント...

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龍安寺の石庭の意味とは?(その2)

さて、龍安寺の石庭の意味を「思索」してみよう。そもそもこの枯山水の石庭は、高度に抽象的な表現だ。ベースとなる砂紋は大海原をあらわし、整然と平行に描かれる。これが15個の石組に近づくと、微妙な波紋となり、石の島に打ち寄せるかのようである。石の島は海中に没しないよういわば「我」を主張しているのだが、「自然」「宇宙」の象徴である、大海はそんなことお構いなしに、波頭を浴びせ、自身の「存在」に引きずり込もうとする。それだけではない。今にも海中に没せんとしている海面すれすれの2個の石を除き、石組みの周りには、どれも苔が取り囲んでいる。苔は、それが取り付いた対象を解体しようとするはたらきがある。すなわち、石がどんなに「我」を主張しようと、そんなものは幻想であるといいたいのであろうか。石を人の「煩悩」と置き換え、大海を「空性」とか「さとり」とかに置き換えるとわかりやすい。前者はわれわれが日常で「自己主張」...

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龍安寺の石庭の意味とは?

京都龍安寺といえば石庭である。ユネスコの世界遺産にも登録され、海外にも禅庭園として名高い。京都観光の定番でもあるこの石庭は、だれでも一度は行ったことがあるのではないだろうか。私も中学、高校の修学旅行で2度訪れたことがあるが、禅やら枯山水やらの本当の意味がまるでわからず、ふーんこんなものかといった程度の印象であった。 その後、一度も行ったことはない。しかし、禅の意味やらがようやく分かりかけてきたこのごろ、また行ってみたいという気もするし、いや、行く必要はないような気もする。ここの心境がまたややこしいところだが。 東西25メートル、南北10メートル。三方を築地塀にかこまれ、一面の白砂に異形の石15個が無造作に?配置してあるだけである。この天下の名園は、古今の研究家が様々な解釈を試みている。曰く「中国の故事、虎の子渡しの表現である」、曰く「どこから見ても1つは隠れるようになっている。残りは心...

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「ゆるす」ことが幸せへの近道

――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 僕はあの悲惨な戦争を経験しているから、戦争や核兵器には絶対反対だけれど、ただ「戦争反対」と声高に叫ぶだけでは、いつまでたっても、平和は来ないと思うんだ。ニューヨークの9・11テロの後に、憎しみの輪が世界に広がったように。だから、命を大事にし、なぐられても相手を許すという姿勢こそが必要だと思うんです。そして、それを子供に教えなければいけない。2005年10月に、指揮者の小沢征爾さんと広島市で開いた「世界へおくる平和のメッセージ」という音楽会にも、そんな思いを込めたんです。7000人の観客を集めて、小沢さんが、フォーレの「レクイエム」を指揮し、僕は自作の詩を朗読してね。「殺すなかれ、核兵器を葬れ、とのかけ声からは本当の平和は生まれなかった。そこで、私はこう提唱したい。人を心から愛するために、全てをゆるそう」と。最後には...

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その3~意識の構造とは~

前回、無意識を含めた心の構造をトリニティー図(ボロメオの輪、三位一体モデルといってもいいか)として提示しましたが、今回より具体的に説明していきたいと思います。 早速ですが、「心/意識の構造」のモデルを下図 のように提示します。 左下がR:Real(現実界)上が I:Imaginary(想像界)右下がS:Symbolic(象徴界)と名づけることにします(カッコ内は、ラカンの定義で、そこからイニシャルを拝借しました)。 Rは、リアルの名の通り、「自然」「モノ」「存在」とかをさします。私たちが「存在」を対象化すると、やおら「存在者」として意識に出現してきますが、R自体は意識では捉えることができない領域です。従って心/意識の構造としては、「無意識系」と名づけておきましょう。このRには自己の接する環境(宇宙・自然界の森羅万象や他人)と、自分(心を生み出す肉体・脳=自然の分身たる自分のこと...

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「テグメンタ」と「ストリアツム」

既に読んだ方もいると思いますが、ダビンチの最新号に、歌人と科学者(だったか?)のトークが載っていた。ちょっと、面白かったので、簡単に紹介したいと思います。 「恋は盲目」 人の脳には「テグメンタ」という部位があり、快感を生み出す場所とのこと。左右2箇所あり、右側は恋愛時に活性化、左側はおばさんが「ヨン様」というような感情を持つ際に活性化する。(ン?違いがいまいち分からんが)なお、酒・たばこに伴う快感にも関係しており、テグメンタがある限り、やめられないそうな。しかも理由は説明できない。理屈で「体に悪いから、周りに迷惑だから」といっても、絶対に納得しないのである。 「あんなに好きだったのに、突然きらいになる」 人の脳には「ストリアツム」という部位があり、意識には上がってこないが、ちゃんと理由があって、感情を左右する情報が蓄積される場所とのこと。そして、ある閾値を超えるとワーッと意識化する...

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「ある」の本質は「ある」即是「ない」である?

私たちは、通常机や鉛筆や紙が「ある」と思っている。これらがあるおかげで、机上で鉛筆を用いて紙に文字を書くことができる(昨今はパソコンとワープロソフトとプリンタ)。「常識」であり、日常的なことである。でも、「ある」とはどんな意味なんだろう。言い換えれば、「存在する」とはどんな意味をもつのだろうか。 ハイデガーは、「存在者」+「存在」で「ある」ということの哲学的意味合いを説明する。私たちが、通常「ある」と思っている、机や鉛筆や紙は「存在者」であって「存在」という実体ではないというのだ。 実際われわれは実存的な「存在者」である机をながめたリ、手でふれることはできるが、裏側や内部構造は分からない。さりとて、反対側に廻って見ても今度は表側が見えなかったりするし、ばらしたり強度分析をしてみても、木片や強度データが残るだけである。一向に「机そのもの」の実体は現れてこない。この現れてこない実体そのもの...

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ジャンケンは哲学を超える?

いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか 著者:ルドルフ シュタイナー販売元:筑摩書房Amazon.co.jpで詳細を確認する 死ぬ瞬間―死とその過程について 著者:エリザベス キューブラー・ロス販売元:中央公論新社Amazon.co.jpで詳細を確認する 生き延びるためのラカン 著者:斎藤 環販売元:バジリコAmazon.co.jpで詳細を確認する 「勝負強い人間」になる52ヶ条―20年間勝ち続けた雀鬼がつかんだ、勝つための哲学 著者:桜井 章一販売元:三笠書房Amazon.co.jpで詳細を確認する 悪人正機 著者:吉本 隆明,糸井 重里販売元:新潮社Amazon.co.jpで詳細を確認する 社会契約論 著者:J.J. ルソー販売元:岩波書店Amazon.co.jpで詳細を確認する ...

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その2

前回、意識の流れの基本をごく単純化して提示しました。2回目なので、やや肉付けしてみましょう。①対象を知覚、体験、想像し、感情表現する(感じるの世界)②認知、認識、思考、意味づけをして価値判断する(考察の世界)③分類、分析、理解して概念・原理化する(観るの世界)※いきなり、いろんな概念のオンパレードで面食らった方もいると思いますが、ゆくゆく説明しますので、お許しを。また、ほんとはこのようにすっぱりきれいにわけられず、重なったり、行きつ戻りつうろうろする人の意識の世界ですが、ものごとの本質を分析・理解するためには、まさに③のはたらきを適用して「分類して」考えようと思います。われわれは通常上記のような意識世界に生きており、世の中のあらゆる問題はこの意識世界で解決できると思い込んでいる割には、ほとんど解決できずにいます。優秀な人類の思考をもってして、何で理想の世の中が実現できないのか、世間で成功し...

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)

「見る」と「観る」はどう違うのだろうか。 見るは、「杏の木を見る」「空を見る」のように、外界の事物を実際に目で見ることや、「夢を見る」のように心の内部で感じることをいう。これに対して、観るは大辞林 第二版には、 (1)目に映った印象。物事の様子・状態。 「別人の観がある」「侵すべからざる如き観ある処の外科室/外科室(鏡花)」(2)〔仏〕 特定の想念や心の本性などを心の中で観察し、仏教の真理に達する方法 とある。(1)は、ごく普通の用法で、いわば「見る」の結果としての考察・意味づけをあらわすと考えられる。注目すべきは、(2)の用法である。仏教的な用法と断った上で、要するに心の内部での観念の観察/究明を指す。結果として、「仏教の真理に達する」という。ううむ。観るを極めると「仏教の悟り」に達するというのである。これは尋常ではない。それはさておき、(1)は外界で「見た」ものを意味づけ(考察)、(2...

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