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2007年6月

「ある」の本質は「ある」即是「ない」である?

私たちは、通常机や鉛筆や紙が「ある」と思っている。これらがあるおかげで、机上で鉛筆を用いて紙に文字を書くことができる(昨今はパソコンとワープロソフトとプリンタ)。
「常識」であり、日常的なことである。
でも、「ある」とはどんな意味なんだろう。言い換えれば、「存在する」とはどんな意味をもつのだろうか。

ハイデガーは、「存在者」+「存在」で「ある」ということの哲学的意味合いを説明する。私たちが、通常「ある」と思っている、机や鉛筆や紙は「存在者」であって「存在」という実体ではないというのだ。

実際われわれは実存的な「存在者」である机をながめたリ、手でふれることはできるが、裏側や内部構造は分からない。さりとて、反対側に廻って見ても今度は表側が見えなかったりするし、ばらしたり強度分析をしてみても、木片や強度データが残るだけである。一向に「机そのもの」の実体は現れてこない。この現れてこない実体そのものをハイデガーは「存在」という。「存在」という「見えない背後」に支えられて、「存在者」が忽然と姿を表す。

これが、「ある」ということの正体だというのだ。「存在者」が実存する限り、「存在」は即座にその背後に後退してしまい、「ない」ともいえる。

つまり、「存在者」とは、われわれの五感等の意識で認識できる事態であり「現象、こと」に過ぎない。「存在」という実体には五感等ではけっして触れることはできない。到達不可能なもの。このカントの言う「もの自体」はしたがって、「ない」ということになる。(だからといって、単純にないとはいえないので、「もの自体」などとと名づけて概念化したのが、超自然的原理を設定して学問の対象としたいわゆる形而上学である。理解はできるが認識できないものを概念化して哲学はプラトンのイデア以来苦闘を続けている)

以上をまとめると、われわれの思っている「ある」(存在者(=事態、現象))即是「ない」(存在(=実体、もの自体))で「ある」の全貌があらわになる。
ということになる。

これは、大乗仏教のキーワードである「色即是空」と同じことを言っている。
・「ある」即是「ない」
・「現象」即是「もの自体」
・「こと」即是「もの」
お分かりであろうか。
われわれがなにげなくあるとか存在するといっているのは、哲学的には、ないことと併せて本質的に「ある」というのである。仏教でも同様である。ほんとうの「ある」とは
「色即是空 空即是色」の行って還ってくる動き全体をさす。
ここが真に直覚できれば、「ほんとうのこと」は間近である。

獅子鷹

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ジャンケンは哲学を超える?

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ジャンケンは、二人以上の人間間における恨みっこなしの物事の決着方法である。二人またはそれ以上の人間で各々がグー・チョキ・パーの何れかを慎重に決め(あるいは直感的に、はたまた無意識に)「ジャンケンポン」の掛け声とともに同時に出すのである。
グーはパーに負け、パーはチョキに負け、チョキはグーに負ける。
これをグー→パー→チョキ→グーと表すことにする。

ジャンケンは、物事を決める際の最も素朴な決め方である。なにしろ、何も要らないのである。しかも、後腐れが残らない。欧米のコイントスは、コインが要る。サッカーなどでは審判が介入する。阿弥陀くじには紙と鉛筆とはしごの複合体のようなアミダ線を引く必要がある。ジャンケンはいきなり勝負をはじめ、いきなり物事が決着する。あまりに単純なので、「もう一回」とか「5回勝負」などの付加ルールはあるが、原理は同じである。なんと単純かつ普遍性を備えたルールであることか。

「最初はグー」といって始める。なぜ?と大真面目に考えてみる。
すると、思ってもみなかった普遍性を発見してしまったのだ。
それは、こうだ。

グーから連想されるのは、丸い地球ではないだろうか、と私は考えた。母なる地球・大地は人間をはじめとする生命を生み育む力の象徴である。グー=地球=母の連想。赤ちゃんは、手のひらをグーにして、全身をグーにして、グーなる母親の子宮から生まれてくる。まさに、「最初はグー」ではないか。

そして、すぐさまに、生きることの喜びを全身に表して(生を全開にして=パーの象徴)母親の母乳をむさぼり、吐き、またむさぼる。これ即生命力の塊。

そのうちに、ラカンのいう鏡像段階を経て、ものごころがつくと、指を意識的に使うようになる。人指し指、薬指などのように、指の名称そのものが、使う目的の象徴になるものもあるくらいである。かくして、人差し指と中指2本を同時に突き立てて「チョキ」を表す。
 
なんと、グー→パー→チョキは人間の成長段階に対応していたのである。

そして、チョキを駆使して、人は人生を全うし、やがて死んで大地に還る。そう、全てを包み込む母なる地球・大地(グー)へ。

グー→パー→チョキ→グーの関係の完結である。


どんなに完成された哲学(もちろんチョキ)も、自然やモノ(グー)にはかなわないと、ジャンケンのルールは言っているのである。なんと、ジャンケンは洞察力に富んだ超哲学であったのだ。

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その2

前回、意識の流れの基本をごく単純化して提示しました。2回目なので、やや肉付けしてみましょう。

①対象を知覚、体験、想像し、感情表現する(感じるの世界
②認知、認識、思考、意味づけをして価値判断する(考察の世界
③分類、分析、理解して概念・原理化する(観るの世界

※いきなり、いろんな概念のオンパレードで面食らった方もいると思いますが、ゆくゆく説明しますので、お許しを。また、ほんとはこのようにすっぱりきれいにわけられず、重なったり、行きつ戻りつうろうろする人の意識の世界ですが、ものごとの本質を分析・理解するためには、まさに③のはたらきを適用して「分類して」考えようと思います。

われわれは通常上記のような意識世界に生きており、世の中のあらゆる問題はこの意識世界で解決できると思い込んでいる割には、ほとんど解決できずにいます。優秀な人類の思考をもってして、何で理想の世の中が実現できないのか、世間で成功しても大金持ちになっても何で気が休まらないのか、何で小さないさかいから大きな戦争までエゴがぶつかり合うのか。。際限がなくなるので、やめておきます。

本筋に戻します。なぜこのように分けてみたかというと、①から③にかけての、それぞれの意識の働き(これは分別の世界)以前に、たとえば①のような「感じるの世界」があらわになる直前に、

◆すべてのものを見ているけれど、何も見ていないような状態。
◆聴覚的にも、すべての音が等価である状態。


といった、世界が”一緒くた”になる世界があります。
先ほど意識の世界は「分別の世界」といいましたが、まさに「無分別の世界」です。以前、鎌倉建長寺のお坊さんはこの辺の消息を「世界が一緒くた→差がない→差を取る→さとり」などといってましたが。。、

つまり、最終的には意識世界①、②、③各々について、それ以前(トランセンデンタル?)の世界があることを言いたい為なのですね。

これを、「感ずる」に対して「直感
    「考察する」に対して「洞察
    「観ずる」に対して「直観
というワードを充ててみたいと思っています。
いかにも意識の下で分別的に働いているように思われますが、実は、対象と一体化した上での心の働きだと考えています。
いわば、意識に対して非意識(あくまで無意識ではない)

2_2 以上を、トリニティー図(ボロメオの輪、三位一体モデルといってもいいか)にして提示します。じつは、これが無意識を含めたこころの構造なのです。

死したか もとい 獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)

見る」と「観る」はどう違うのだろうか。

見るは、「杏の木を見る」「空を見る」のように、外界の事物を実際に目で見ることや、「夢を見る」のように心の内部で感じることをいう。これに対して、観るは大辞林 第二版には、

(1)目に映った印象。物事の様子・状態。
「別人のがある」「侵すべからざる如きある処の外科室/外科室(鏡花)」
(2)〔仏〕 特定の想念や心の本性などを心の中で観察し、仏教の真理に達する方法

とある。(1)は、ごく普通の用法で、いわば「見る」の結果としての考察・意味づけをあらわすと考えられる。注目すべきは、(2)の用法である。仏教的な用法と断った上で、要するに心の内部での観念の観察/究明を指す。結果として、「仏教の真理に達する」という。ううむ。観るを極めると「仏教の悟り」に達するというのである。これは尋常ではない。
それはさておき、(1)は外界で「見た」ものを意味づけ(考察)、(2)で外界との世界を一切絶って、心の内部であらゆる思念を働かせるということになる。

 

以上を簡潔にまとめると、次のようになる。

 

①「見る」・・外界や心の内部をじかに「感ずる」
②「観る」その1・・見て感じとったものを「考察する」
③「観る」その2・・心の内部のみで「思念する」

 

①は、「目で見る」に代表される、五感の感覚、感性の世界、③は、純粋に理性・知性・シニフィアンの世界である。その間の②は、いわば①と③の境界をなすシニフィエの世界。心のプロセスの基本は①→②→③と流れるようである。

 

上記から、キーワードを取り出し、以下のようにしてみよう。

 

①「」・・内外のリアルワールドとの接触
②「(考)」・・シニフィエ
③「」・・シニフィアン

 

これが、人間の心のうち、意識して経験できる世界であるようだ。

 

では、気になる、「悟り」。前出の大辞林によると、「特定の想念や心の本性などを心の中で観察」すると「仏教の真理に達する」という。こころの中で「観察」するのであるから、上記のキーワードの定義により②、③をある方法で極めると、悟れるというのである!!いったいどうやって!!

 

次回のお楽しみ。

 

獅子鷹

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