「ある」の本質は「ある」即是「ない」である?
私たちは、通常机や鉛筆や紙が「ある」と思っている。これらがあるおかげで、机上で鉛筆を用いて紙に文字を書くことができる(昨今はパソコンとワープロソフトとプリンタ)。
「常識」であり、日常的なことである。
でも、「ある」とはどんな意味なんだろう。言い換えれば、「存在する」とはどんな意味をもつのだろうか。
ハイデガーは、「存在者」+「存在」で「ある」ということの哲学的意味合いを説明する。私たちが、通常「ある」と思っている、机や鉛筆や紙は「存在者」であって「存在」という実体ではないというのだ。
実際われわれは実存的な「存在者」である机をながめたリ、手でふれることはできるが、裏側や内部構造は分からない。さりとて、反対側に廻って見ても今度は表側が見えなかったりするし、ばらしたり強度分析をしてみても、木片や強度データが残るだけである。一向に「机そのもの」の実体は現れてこない。この現れてこない実体そのものをハイデガーは「存在」という。「存在」という「見えない背後」に支えられて、「存在者」が忽然と姿を表す。
これが、「ある」ということの正体だというのだ。「存在者」が実存する限り、「存在」は即座にその背後に後退してしまい、「ない」ともいえる。
つまり、「存在者」とは、われわれの五感等の意識で認識できる事態であり「現象、こと」に過ぎない。「存在」という実体には五感等ではけっして触れることはできない。到達不可能なもの。このカントの言う「もの自体」はしたがって、「ない」ということになる。(だからといって、単純にないとはいえないので、「もの自体」などとと名づけて概念化したのが、超自然的原理を設定して学問の対象としたいわゆる形而上学である。理解はできるが認識できないものを概念化して哲学はプラトンのイデア以来苦闘を続けている)
以上をまとめると、われわれの思っている「ある」(存在者(=事態、現象))即是「ない」(存在(=実体、もの自体))で「ある」の全貌があらわになる。
ということになる。
これは、大乗仏教のキーワードである「色即是空」と同じことを言っている。
・「ある」即是「ない」
・「現象」即是「もの自体」
・「こと」即是「もの」
お分かりであろうか。
われわれがなにげなくあるとか存在するといっているのは、哲学的には、ないことと併せて本質的に「ある」というのである。仏教でも同様である。ほんとうの「ある」とは
「色即是空 空即是色」の行って還ってくる動き全体をさす。
ここが真に直覚できれば、「ほんとうのこと」は間近である。
獅子鷹
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