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2007年10月

龍安寺の石庭の意味とは?(その4)

「大海原」=「無機物=物質」

「15の石」=「有機物=生命体」

と構造化できないだろうか。ということだった。

これまで出てきた事項を簡単にまとめてみよう。

①「大海原」=「無機物=物質」   ⇔ 「さとり」「空」「存在」

      ↑                 ↑

        【相対立/矛盾する関係】

      ↓                 ↓

②「15の石」=「有機物=生命体」 ⇔ 「まよい」「煩悩」

②が、人間が通常おかれている事態である。なんの変哲もない。ところが、「人間とは何か」「存在とはなにか」「生きる意味は」と問い始めた人は、うまくいくと①の世界に到達する。すると、物質である脳・からだのはたらきとして生命現象/こころが、存在のただなかかからまよえる「存在者」が、矛盾を孕みながら現出してくることが分かってくる。②は①という実相があって初めて、現象できる「はたらき」なのである。ここまで納得できれば、あとは一直線。

「空即是色」である。

大手を振って、この娑婆世界を「主人公」として闊歩できるというものである。①の世界を体得したのであるから、堂々と②へ戻ってくればよい。この宇宙、銀河系内にあって生きていること自体がまさに「神秘」であり「奇跡」であることを石は語りかけているのである。怒涛の波、足許のコケの解体力に抗い、健気に生きたいものである。

「龍安寺の庭石が新しくなった。全面的に入れ替わったわけではない。きれいに洗われ、石の表面がはっきりとみえるようになった。洗ったのは、石が崩れはじめており、それを補修するためであった。思えば不思議なことだ。長い間、白砂に配された15石は同じように薄黒く、だれもが石一つひとつの表情など問うものはなかった。・・」(小学館ウイークリーブック 日本庭園をゆく 2 より)

いけない、いけない。石はエントロピー増大の法則にしたがい、崩れてしまう。石は同じように薄黒くなり、足もとの海原へ還元されてしまうではないか。日々石(自分の命)を磨こう。さとりの世界にとどまっていてはいけない。もうすべての真実が明らかになったのだ。なにも迷うことはない。命のかぎり、生命力を躍動させよう。進んで迷おう。

「水月の道場に坐し(色即是空)、空華の万行を修す(空即是色)」

人生に意味がないなど、断じて、ない。

獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?(その3)

この地球上で「一生懸命生きる」ことは「煩悩であり、幻想なので」意味はないと言い切る人も有名な仏教学者などにもいる。「人生はもともと意味などないのだ」と。

ほんとうに、そうなのだろうか。

「物質(マテリアル)」は、実に多様な意味を含む概念である。マクロでは「もの」「自然」「宇宙」「森羅万象」などと言い換えることもできる。ミクロでは、「素粒子の離散集合」とでもいうのだろうか。一般的には、「熱力学第二法則」にしたがい、閉じた系であれば系内の物質のエントロピー(乱雑さ)は増大する。すなわち、形あるものは崩壊し、濃度の差異があれば最終的には混ざり合い均一化する方向に物事は進行する。(宇宙は閉じた系か?膨張しつづけるか、いずれ収縮に転ずるか?といった議論は措く)

ところが、わが地球には「生命体」なるものが存在する。人を含む動物・植物・微生物・ウイルスなど有機物である「生命体」は何の因果か、エントロピー増大に抗い、DNAを持ち、DNAによる自己複製・動的平衡によりエントロピーが平衡を保つように振舞うという。ところが、生命体もからだという「物質」を有するのだから、自己崩壊という矛盾を内包しつつ生命を維持していることになる。生命体は日々・刹那に細胞レベルで新陳代謝を繰り返しながら老化をたどり、やがて個体としては死を迎えるが、DNAにより種は再生されるのである。

このことは、有機物である「生命体」と無機物である物質が対立関係にあるということができないだろうか。これは、何を意味するのだろうか。

ここで、石庭にもどる。

上述は、

「大海原」=「無機物=物質」

「15の石」=「有機物=生命体」


と構造化できないだろうか。 (つづく)

獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?(その2)

さて、龍安寺の石庭の意味を「思索」してみよう。


そもそもこの枯山水の石庭は、高度に抽象的な表現だ。ベースとなる砂紋は大海原をあらわし、整然と平行に描かれる。これが15個の石組に近づくと、微妙な波紋となり、石の島に打ち寄せるかのようである。石の島は海中に没しないよういわば「我」を主張しているのだが、「自然」「宇宙」の象徴である、大海はそんなことお構いなしに、波頭を浴びせ、自身の「存在」に引きずり込もうとする。それだけではない。今にも海中に没せんとしている海面すれすれの2個の石を除き、石組みの周りには、どれも苔が取り囲んでいる。苔は、それが取り付いた対象を解体しようとするはたらきがある。すなわち、石がどんなに「我」を主張しようと、そんなものは幻想であるといいたいのであろうか。


石を人の「煩悩」と置き換え、大海を「空性」とか「さとり」とかに置き換えるとわかりやすい。前者はわれわれが日常で「自己主張」したりして人を傷つけたり、傷ついたりしている現実や現象世界であり、因果にまみれた「色(しき)」の世界。後者は、「現実は幻想である」と気づくと即その場に広がる「空」の世界、というわけである。まずは、「現実は幻想」と気づけ!

「色即是空」

ふむふむ、これだけなら、出家しなくても、坐禅や禅問答で厳しい修行せずとも、千日回峰行などせずとも、「思索」の上なら悟った気にもなってくる。(ほんとうか?)


「おれはしかし遂に無数の

石の群がりに遮られてゐた

石はみな怒り輝いてゐた

石はみな静まり返ってゐた

石はみな叫び立とうとしてゐた

ああ 石はみな天上に還らうとしてゐた」(室生犀星)


室生犀星の龍安寺の石庭を前にして詠んだこのこころの叫びにも似た詩。私の解釈では、最後の行の「ああ」の感嘆詞が「さとり」への跳躍をあらわしていると思う。真実に触れた詩・芸術は美しい。。


でも、本当に石は天上に還ってしまって、それだけでいいのだろうか。その瞬間にも石は一生懸命生き続けているのではないのか。  (つづく)


獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?

京都龍安寺といえば石庭である。ユネスコの世界遺産にも登録され、海外にも禅庭園として名高い。京都観光の定番でもあるこの石庭は、だれでも一度は行ったことがあるのではないだろうか。私も中学、高校の修学旅行で2度訪れたことがあるが、禅やら枯山水やらの本当の意味がまるでわからず、ふーんこんなものかといった程度の印象であった。

その後、一度も行ったことはない。しかし、禅の意味やらがようやく分かりかけてきたこのごろ、また行ってみたいという気もするし、いや、行く必要はないような気もする。ここの心境がまたややこしいところだが。

東西25メートル、南北10メートル。三方を築地塀にかこまれ、一面の白砂に異形の石15個が無造作に?配置してあるだけである。この天下の名園は、古今の研究家が様々な解釈を試みている。曰く「中国の故事、虎の子渡しの表現である」、曰く「どこから見ても1つは隠れるようになっている。残りは心眼でみよ」「どこから見ても同じ景色は一つとしてない。だから人間は真実をみることはできないのだ」等々。。方丈の縁側に腰掛けると、一目で石庭全体が視覚に入る。いわば小宇宙とみたてて自己を没入させるというわけである。

「しかし、案内表示に逆らうわけではないが、龍安寺は参道左に広がる「鏡容池」から巡りたい。寺の歴史の経緯をこの池庭から振りかえるのと目当ての「石庭」に思索の時間をたっぷり残しておく意味でも・・・・。」(小学館ウイークリーブック 日本庭園をゆく 2 より)

縁側に腰掛け、たっぷり「思索」するのもよい。そもそもこの枯山水の石庭は、高度に抽象的な表現だ。ベースとなる砂紋は大海原をあらわし、整然と平行に描かれる。これが15個の石組に近づくと、微妙な波紋となり、石の島に打ち寄せるかのようである。

これは、なにを意味するのか。「思索」してみよう。(つづく)

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