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龍安寺の石庭の意味とは?(その2)

さて、龍安寺の石庭の意味を「思索」してみよう。


そもそもこの枯山水の石庭は、高度に抽象的な表現だ。ベースとなる砂紋は大海原をあらわし、整然と平行に描かれる。これが15個の石組に近づくと、微妙な波紋となり、石の島に打ち寄せるかのようである。石の島は海中に没しないよういわば「我」を主張しているのだが、「自然」「宇宙」の象徴である、大海はそんなことお構いなしに、波頭を浴びせ、自身の「存在」に引きずり込もうとする。それだけではない。今にも海中に没せんとしている海面すれすれの2個の石を除き、石組みの周りには、どれも苔が取り囲んでいる。苔は、それが取り付いた対象を解体しようとするはたらきがある。すなわち、石がどんなに「我」を主張しようと、そんなものは幻想であるといいたいのであろうか。


石を人の「煩悩」と置き換え、大海を「空性」とか「さとり」とかに置き換えるとわかりやすい。前者はわれわれが日常で「自己主張」したりして人を傷つけたり、傷ついたりしている現実や現象世界であり、因果にまみれた「色(しき)」の世界。後者は、「現実は幻想である」と気づくと即その場に広がる「空」の世界、というわけである。まずは、「現実は幻想」と気づけ!

「色即是空」

ふむふむ、これだけなら、出家しなくても、坐禅や禅問答で厳しい修行せずとも、千日回峰行などせずとも、「思索」の上なら悟った気にもなってくる。(ほんとうか?)


「おれはしかし遂に無数の

石の群がりに遮られてゐた

石はみな怒り輝いてゐた

石はみな静まり返ってゐた

石はみな叫び立とうとしてゐた

ああ 石はみな天上に還らうとしてゐた」(室生犀星)


室生犀星の龍安寺の石庭を前にして詠んだこのこころの叫びにも似た詩。私の解釈では、最後の行の「ああ」の感嘆詞が「さとり」への跳躍をあらわしていると思う。真実に触れた詩・芸術は美しい。。


でも、本当に石は天上に還ってしまって、それだけでいいのだろうか。その瞬間にも石は一生懸命生き続けているのではないのか。  (つづく)


獅子鷹

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