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2007年12月

宗教って何?

ある雑誌に、町田宗鳳氏と鎌田東二氏の対談が載っていた。読み進めると、「宗教をどう説明するか」というくだりで両氏が概略次のように述べられていた。

町田「二つの円を描いて、それぞれ心と身体を表す。宗教とは二円の重なった部分。この重なりの部分が大きいほど生きていて楽しいし、「ありがとう」という気持ちも湧いて来る。・・現代人はこの二円が離ればなれになっている。・・」

鎌田「心はウソをつくけど、体はウソをつかない。それと魂の関係を考えるのが宗教的レベルの話。・・ウソをつかない身体と、ウソをつけない魂がどうやって調和のある関係をつくっていくのかというのが一つの修行である。人間の心と身体と魂の関係をクリアにして、できるだけありのままの状態、ウソをつかない状態に近づけていくことが大事。」

ふたりの会話を統合して解釈すると、こうなる。

「宗教とは、優れて人の心身をどう捉えるかにつきる。心身は切り離すことができない。

①身体               =ウソをつかない

②魂(①と③の重なり合う部分)=ウソをつけない!

③心                =ウソをつく

心ができるだけウソをつかないように②の領域を大きくしつつ、①との調和をつくっていく(修行などを通じて)のが宗教のありかたである。」

とこんなところであろうか。なかなか示唆的な会話であると思う。

確かに、③心はウソをつく(人の為すことはすべて「偽」)。これに対して、①身体は正直である。寒いときは寒い。痛いときは痛い。必ず土に還る。まったく、ウソつきの心の思い通りになったためしがない。

では、②魂が「ウソをつけない」というのはどういうことだろうか。魂は身体と心の重なった部分であるから、心身の橋渡しをするとともに、心身の絶対矛盾(ウソをつかない/つく)を背負い込む微妙な役割を負うことになる。

魂が弱ければ(①と③の重なりが小さい、またはゼロ)、心は、自由を履き違えて「ウソをつけない」魂を誑かして悪魔のようにウソをつきまくる。すると、小心者の魂はウソを強いられ、本来のウソをつけない性に反するため、ますます弱ってしまう。

逆に魂が強ければ(①と③の重なりが大きければ)、ウソをつかない①身体とタッグを組んでウソつき性の心を極力おさえることができる(これを「自浄其意」という)ということか。

どうやら、「魂を強くし、かつ、身体に親しみ、心を平静に保つよう努力する」ことが、宗教の要諦であるようだ。

獅子鷹

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今年の漢字は「偽」

2007年の世相を表す「今年の漢字」に「偽」が選ばれた。老舗ブランドの相次ぐ原材料偽装、賞味期限偽装などの発覚や泥沼の年金問題などが理由という。庶民的には至極納得のいく結論ではある。しかし、よくよく考えてみると、あの雪印事件だって同じ偽装事件である。今年発覚した企業も知らぬわけがあるまい。本来ならいつでも襟を正せたわけである。「他山の石」という教訓は絵空事ということか。これでは、「悪いことをしてもばれなければいい」というのが人間の常識ということになる。。そしてばれたら「悪いやつだ、許せん!」「す、すいません」そして、沈静化したら、またぞろ。。

とはいえ、悪いことはしていないという人ももちろんいる。「悪いやつだ、許せん!」と多くの人が思う。多数派であろう。正しいことをしていればOKで悪いことをしたらNGということか。では「正しい」とか「よい」とはどんなことか。「悪い」とはどんなことか。皆さん、答えられますか?

そもそも「偽」という字は「人」が「為す」あるいは「人」の「為に」と分解できる。なんと、人が「ために為す」ことはすべて「偽」というのである。したがって、「よい」と思ってしたことも、「悪い」と思ってしたこともすべて「偽」!!「よい」と思ってしたこともなんで「偽」なのか。これはいったいどういうことか。

「為」の意味を広辞苑で引くと、①利益、幸福②目的・・とある。人間生きていくために、これらは通常欠かせない。しかし、これらの「現世の利」目当てに為す行動は「偽」というのである。つまり「有為」の行動は「偽」。なんという洞察力。日本の漢字は本当に味わい深い。

ではどうしたらよいか。

ロジカルには、有為の反対「無為」。宗教的には善悪の彼岸。つまり現世的な「利」なるものを求めないということになる。ちょっと思いついただけでも、有為の利には「権利」「便利」「金利」などたくさん出てくる。現代はこれらの利の追求は「善」となっているのだ。しかし、これらは「偽物」と喝破されているのである。この意味を洞察することから、「ほんとうのこと」が明らかになってくるのである。

では偽物でない本物の利は・・・これを「冥利」という。最近は「求めない」という信州伊那谷の老子さんの本も話題になっている。

今回揮毫した京都清水寺の森貫主は「己の利ばかりを望むのではなく、分を知り、自分の心を律する気持ちを取り戻してほしい」と話されたとのこと。

つまり、「己の利」=有為の利ばかりではなく、「分(自然の分身たる自分)」=無為の利を知り、これに基づき「自分の心」を律せよ。

至極まっとうな言葉である。

獅子鷹

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