宗教って何?
ある雑誌に、町田宗鳳氏と鎌田東二氏の対談が載っていた。読み進めると、「宗教をどう説明するか」というくだりで両氏が概略次のように述べられていた。
町田「二つの円を描いて、それぞれ心と身体を表す。宗教とは二円の重なった部分。この重なりの部分が大きいほど生きていて楽しいし、「ありがとう」という気持ちも湧いて来る。・・現代人はこの二円が離ればなれになっている。・・」
鎌田「心はウソをつくけど、体はウソをつかない。それと魂の関係を考えるのが宗教的レベルの話。・・ウソをつかない身体と、ウソをつけない魂がどうやって調和のある関係をつくっていくのかというのが一つの修行である。人間の心と身体と魂の関係をクリアにして、できるだけありのままの状態、ウソをつかない状態に近づけていくことが大事。」
ふたりの会話を統合して解釈すると、こうなる。
「宗教とは、優れて人の心身をどう捉えるかにつきる。心身は切り離すことができない。
①身体 =ウソをつかない
②魂(①と③の重なり合う部分)=ウソをつけない!
③心 =ウソをつく
心ができるだけウソをつかないように②の領域を大きくしつつ、①との調和をつくっていく(修行などを通じて)のが宗教のありかたである。」
とこんなところであろうか。なかなか示唆的な会話であると思う。
確かに、③心はウソをつく(人の為すことはすべて「偽」)。これに対して、①身体は正直である。寒いときは寒い。痛いときは痛い。必ず土に還る。まったく、ウソつきの心の思い通りになったためしがない。
では、②魂が「ウソをつけない」というのはどういうことだろうか。魂は身体と心の重なった部分であるから、心身の橋渡しをするとともに、心身の絶対矛盾(ウソをつかない/つく)を背負い込む微妙な役割を負うことになる。
魂が弱ければ(①と③の重なりが小さい、またはゼロ)、心は、自由を履き違えて「ウソをつけない」魂を誑かして悪魔のようにウソをつきまくる。すると、小心者の魂はウソを強いられ、本来のウソをつけない性に反するため、ますます弱ってしまう。
逆に魂が強ければ(①と③の重なりが大きければ)、ウソをつかない①身体とタッグを組んでウソつき性の心を極力おさえることができる(これを「自浄其意」という)ということか。
どうやら、「魂を強くし、かつ、身体に親しみ、心を平静に保つよう努力する」ことが、宗教の要諦であるようだ。
獅子鷹
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