« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月

悟った心とは?

悟った心を喩えて、「大円鏡智」といったりします。「外」たる外界をそのまま写し、「内」たる心の内奥をあるがままに写す。大円のようにまろやかな、静謐なる、永遠に穢れることのない鏡というわけです。鏡の字は「金」ヘンに「竟」。「土」ヘンに置き換えると「境」ですからまさに「境目」を表しています。きれいに磨かれた鏡面が全く見えないように本来鏡自体に「自性」はありません。ただただ、「境目」として(いわば媒介として)「内」「外」をそのままに写すのみです。

ところが、ほとんどの人は「悟って」いません。つまり、曇っていたり、割れていたりします。そうすると、本来の「内」「外」がよく見えなかったり、全く違うように見えたりします。その結果、安全カミソリで顔を切ってしまったりすることになります(よくやるんですよ)。

では、曇らないように自分の鏡(心)を磨くとはどういうことなのでしょうか。

2つの例を挙げます。

・禅宗(達磨さんが初祖)の六祖慧能(7~8世紀・中国)は、坐禅の宗派らしく、こういいます。

、一切善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐となし、、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」

まず「」すなわち、鏡である心からみて「見る」のはたらきにおいては、外界の経験や、経験の想起を善悪、美醜、真偽といった二分法(排中律)の価値判断でするな!という。

次に「」すなわち、鏡である心からみて「観る」のはたらきにおいては、無自性である心/観念の湧き出てくるおおもと(つまり自性=空性)を観じ、信じて動揺するな!という。

これを、「坐禅」という修行で達成しようとするのです。いや、坐禅自体が悟りそのものといっているようです。ですから、禅宗では、自分の心を磨くことは「坐禅」そのものです。

・弘法大師空海(8~9世紀・日本)はこんなことを言っています。

「心というのは内部でも外部でもない。しかし、自らの内にひろがる内在的で無限の領域である。それは「空」であるけれど、あらゆるイメージ(身体としての言葉)が透明なまま重なり合っている」

なんという大胆で的確な表現でしょうか。ほんとうに悟った心から見た表現です。外とか内とか対立概念を立てるような方便的顕教的表現を突き抜けており、大日如来の心境(鏡!?)をあらわしているようです。

獅子鷹

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰でも仏になれる?

キリスト教やイスラム教(ユダヤもそう)世界で、「誰でも神になれる。もちろん僕も!」などと呟いたとたん、「お前、気が狂ったか」と言われるだろう。しかし、日本で、「誰でも仏になれる。もちろん僕も!」といっても、それほど違和感はない。同じ「宗教」を語っていても、この違いはどこから来るのだろうか。

この違いについて「対称性人類学」を実践されている中沢新一氏は、キリスト教は「信仰」。仏教は「信心」。と言及されている。なるほど言いえて妙である。

神とその受肉者たるイエスを「信仰」するのが、キリスト教。ここでは「主体」である「自己」が「客体」である「神」を絶対的に「仰ぎ見る」という構図が見えてくる。自己と神の間に超えがたい溝があるかのごとくである。

これに対して、仏教は「信心」。自らの心身を見つめ、魂を磨くうちに心のうちに仏を見出せる、すなわち「自ら仏になれる」というのである。自己と仏の間には何の障壁もない。それに気づけ!というのである。

なんだか、後者の方に親しみがわいてくるではないか。

先般、「西洋哲学の限界」について書いたが、「信仰」における「自己と神の間の超えがたい溝」ということが形而上(目に見えないもの、普遍的なもの)と形而下(現実)とを厳密に分けることと通底しているようである。それどころか、ニーチェの「神は死んだ」以来、自己が唯一のよりどころとなり、人間の精神(ヒューマニズム)が絶対化し、暴走した。。西欧人をみていると、自信たっぷりに「自己」を語る(主張する)。しかし、どことなく、心休まらないようにも見受けられるのだ。(ビルゲイツさんなど欧米の大富豪がときに莫大な寄付をするのも、この代償ではないだろうかと勘繰っている。)

一方「信心」とは、神仏を対象化して見ていない。目に見える理知・感性も、目にみえない神仏も同じ心にあると見ている。仏(性)がグラデーションのように魂を介して生滅する意識とつながっており、しかもこれら全体が真の意味での「心」ととらえているのである。たとえば弘法大師空海の「秘密曼荼羅十住心論」を紐解くと、仏を潜在性の度合いと捕らえ、まさに、だれでも「即身成仏」できる可能性を説いているのである。

日本は、明治以降「信仰」の文明面だけを欧米から輸入した。しかし、文化性や宗教性は歴史的に「信心」が染み付いているのだから、魂のところでねじれを生じているのではないだろうか。文化性の上に文明が築かれるのが自然であるから、「和魂洋才」といっても、根無し草も同然である。日本人が海外で堂々と主張できないのにはそれなりの理由があるようだ。

とはいえ、「和魂洋才」のような奇妙な文明形態も広い意味では「信心」に吸収されうると思う。「信心」は「信仰」を包含しているからである。来るべき「超宗教」はその先にあると思う。

獅子鷹

| | コメント (0) | トラックバック (0)

西洋哲学の限界とは?

新年早々恐縮ですが、私は、西洋的な「哲学」というものになじめません。どこか、限界をかかえているように思います。限界まではあらゆる分析・思考を駆使して、問い詰めるわけですが、いよいよ到達できないとなると、「語りえぬものには沈黙するしかない」(ウィトゲンシュタイン)。まあ、ブッダも哲学を語るときは「無記」というのですけれど。。

まあ、理知で世の中のあらゆる原理原則を導き出そうと苦悶することは、世の中を理解するために必要だと思いますが、どうしても理解を超えたり、認識不可能な事態が世の中には多いわけで、こういう事態を哲学の対象にしたとたんに、「形而上学」なるものに祭り上げられ、白い目でみられるというわけです。

たとえば「存在」をどう認識するかなんかがそうです。純粋思弁という「内部」にしかないような形式でいかに「存在」などの「外部」を認識をするかなどという問題の立て方をして、アポリア(解決困難な問題)を作り出すわけです。勝手に内部と外部をカテゴリー分けするからこうなるのではないでしょうか。(だから、哲学は口を折らざるを得ない!?)

獅子鷹

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »