悟った心とは?
悟った心を喩えて、「大円鏡智」といったりします。「外」たる外界をそのまま写し、「内」たる心の内奥をあるがままに写す。大円のようにまろやかな、静謐なる、永遠に穢れることのない鏡というわけです。鏡の字は「金」ヘンに「竟」。「土」ヘンに置き換えると「境」ですからまさに「境目」を表しています。きれいに磨かれた鏡面が全く見えないように本来鏡自体に「自性」はありません。ただただ、「境目」として(いわば媒介として)「内」「外」をそのままに写すのみです。
ところが、ほとんどの人は「悟って」いません。つまり、曇っていたり、割れていたりします。そうすると、本来の「内」「外」がよく見えなかったり、全く違うように見えたりします。その結果、安全カミソリで顔を切ってしまったりすることになります(よくやるんですよ)。
では、曇らないように自分の鏡(心)を磨くとはどういうことなのでしょうか。
2つの例を挙げます。
・禅宗(達磨さんが初祖)の六祖慧能(7~8世紀・中国)は、坐禅の宗派らしく、こういいます。
「外、一切善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐となし、内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」
まず「外」すなわち、鏡である心からみて「見る」のはたらきにおいては、外界の経験や、経験の想起を善悪、美醜、真偽といった二分法(排中律)の価値判断でするな!という。
次に「内」すなわち、鏡である心からみて「観る」のはたらきにおいては、無自性である心/観念の湧き出てくるおおもと(つまり自性=空性)を観じ、信じて動揺するな!という。
これを、「坐禅」という修行で達成しようとするのです。いや、坐禅自体が悟りそのものといっているようです。ですから、禅宗では、自分の心を磨くことは「坐禅」そのものです。
・弘法大師空海(8~9世紀・日本)はこんなことを言っています。
「心というのは内部でも外部でもない。しかし、自らの内にひろがる内在的で無限の領域である。それは「空」であるけれど、あらゆるイメージ(身体としての言葉)が透明なまま重なり合っている」
なんという大胆で的確な表現でしょうか。ほんとうに悟った心から見た表現です。外とか内とか対立概念を立てるような方便的顕教的表現を突き抜けており、大日如来の心境(鏡!?)をあらわしているようです。
獅子鷹
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