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誰でも仏になれる?

キリスト教やイスラム教(ユダヤもそう)世界で、「誰でも神になれる。もちろん僕も!」などと呟いたとたん、「お前、気が狂ったか」と言われるだろう。しかし、日本で、「誰でも仏になれる。もちろん僕も!」といっても、それほど違和感はない。同じ「宗教」を語っていても、この違いはどこから来るのだろうか。

この違いについて「対称性人類学」を実践されている中沢新一氏は、キリスト教は「信仰」。仏教は「信心」。と言及されている。なるほど言いえて妙である。

神とその受肉者たるイエスを「信仰」するのが、キリスト教。ここでは「主体」である「自己」が「客体」である「神」を絶対的に「仰ぎ見る」という構図が見えてくる。自己と神の間に超えがたい溝があるかのごとくである。

これに対して、仏教は「信心」。自らの心身を見つめ、魂を磨くうちに心のうちに仏を見出せる、すなわち「自ら仏になれる」というのである。自己と仏の間には何の障壁もない。それに気づけ!というのである。

なんだか、後者の方に親しみがわいてくるではないか。

先般、「西洋哲学の限界」について書いたが、「信仰」における「自己と神の間の超えがたい溝」ということが形而上(目に見えないもの、普遍的なもの)と形而下(現実)とを厳密に分けることと通底しているようである。それどころか、ニーチェの「神は死んだ」以来、自己が唯一のよりどころとなり、人間の精神(ヒューマニズム)が絶対化し、暴走した。。西欧人をみていると、自信たっぷりに「自己」を語る(主張する)。しかし、どことなく、心休まらないようにも見受けられるのだ。(ビルゲイツさんなど欧米の大富豪がときに莫大な寄付をするのも、この代償ではないだろうかと勘繰っている。)

一方「信心」とは、神仏を対象化して見ていない。目に見える理知・感性も、目にみえない神仏も同じ心にあると見ている。仏(性)がグラデーションのように魂を介して生滅する意識とつながっており、しかもこれら全体が真の意味での「心」ととらえているのである。たとえば弘法大師空海の「秘密曼荼羅十住心論」を紐解くと、仏を潜在性の度合いと捕らえ、まさに、だれでも「即身成仏」できる可能性を説いているのである。

日本は、明治以降「信仰」の文明面だけを欧米から輸入した。しかし、文化性や宗教性は歴史的に「信心」が染み付いているのだから、魂のところでねじれを生じているのではないだろうか。文化性の上に文明が築かれるのが自然であるから、「和魂洋才」といっても、根無し草も同然である。日本人が海外で堂々と主張できないのにはそれなりの理由があるようだ。

とはいえ、「和魂洋才」のような奇妙な文明形態も広い意味では「信心」に吸収されうると思う。「信心」は「信仰」を包含しているからである。来るべき「超宗教」はその先にあると思う。

獅子鷹

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