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2008年2月

「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その6~判断系非意識~

最後は、「行:判断系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、前段階で「想:表象系」が大活躍して(コンピュータではプログラムを実行して)いますが、その演算結果を確定させる段階です。Photo_2

ここで、判断系の非意識として、「布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の概念を提示したいと思います。まず、判断系非意識布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の入出力関係を整理しておきます。

                       リアル(環境、自分)【色:表現系、識:記憶系】

                           ↑      ↑      ↑

戒     →定     →智慧    布施/愛→共感/慈悲→真理表現【判断系非意識】

↓↑     ↓↑         ↓↑       ↑      ↑      ↑ 

体験/想像→思考/意味→分析/理解 → 感情表現→価値判断→概念/原理化【判断系意識】 


(1)布施/愛について                                                    

布施/愛は、何の感情も伴わない純粋な贈与の判断です。入力は、表象系非意識の戒と、判断系意識の「感情表現」です。前者は、直感→戒→布施/愛と流れる極めて自然なリアル/無意識と一体となったプロセスですね。後者が曲者です。通常われわれは知覚→体験/想像→感情表現というように、原初の対象をはなれ、美醜・好悪・喜怒哀楽をはじめとするあらゆる感情表現に発散させます。ここに人生を見出します。しかし、真実はリアルに近い布施/愛に気づくのが自然なのですね。感情表現に執着するから、自然に反して苦しいのです。そして感情表現(を滅し)→布施/愛リアルと環境や他人に対しては「表現」し、自己に対しては「記憶」し、よいカルマとして次のリアルとの「触」に備えるというわけです。


(2)共感/慈悲について

共感/慈悲は、布施/愛と親和する概念ですが、一つの違いは、の裏づけがある点です。こころを落ち着け、浄化されると、打算や善悪などの価値判断を超えた「無願」の判断が泉のように湧き出してきます。これが共感/慈悲です。また、「察する」の意識世界では、認知→思考/意味化(認識)→価値判断というように、原初の対象を後得の理知で「それは何の役にたつのか」「価値はあるのか」「良否は」と現世の利を求めて苦しんでいます。そこで、そういう思考判断を手放して、対象であるリアル大悲を注ごうというのが、価値判断(を滅し)→共感/慈悲リアルの流れなのです。


(3)真理表現について

真理表現は、大悲→大智という般若の智慧である「真理」の判断という意味です。判断系意識である「概念化/原理化」はあくまで現象世界における分別を原理・原則化したものですが(「真偽は」と問う)、この真理リアル/無意識(潜在性)をも含んだ「一切」を包含する真理なのですね。ですから、概念化/原理化(これは分析世界の部分的真理に過ぎないことを観じてこれを滅し)→真理表現リアルと至る流れが自然の流れといえます。

これで、非意識系についてのお話は終わります。(つづく)


獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その5~表象系非意識~

さて、いよいよ「想:表象系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」後、「受」:知覚系(INPUT)が生起し、知覚系非意識(直感→洞察→直観)を介して知覚系意識(知覚→認知→分類)が表面化します。これは、いわば、リアルとの接触をこころが了解した段階です。コンピュータでは、データをメモリに格納した段階になります。

次に、いよいよこころのメタプロセスのメインイベントである、「想」:表象系(データを読み出してプログラムを実行する段階にあたります)になります。Photo_2      

  ここで、表象系の非意識として、「戒→定→智慧」の概念を提示したいと思います。戒・定・慧といえば、「三学」といって仏教における「覚りへの道」そのものですね。まず、表象系非意識戒→定→智慧」の入出力関係を整理しておきます。                                                     

リアル(環境、自分)【色:現象系、識:想起系】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【受:知覚系非意識】 → 戒   →定     →智慧【想:表象系非意識】

↓   ↓   ↓                ↓↑    ↓↑     ↓↑

知覚→認知→分類【受:知覚系意識】 →体験/想像→思考/意味→分析/理解【想:表象系意識】                  

(1)戒について

「感ずる」に対応する表象系非意識を、いきなりという概念で提示しました。何かピンときませんね。入力関係を見ますと、表象系意識の「体験/想像」と相互に入出力関係あり、と定義しています。ここは、表象系意識の側から見てみます。

表象系意識「体験/想像」とは、「知覚」した対象を具体的にイメージする段階です。いわば、原初的な「幻想」が発生するわけです。この「幻想」に基づき、いろんな感情(美醜、喜怒哀楽・・)が発生し、いわゆる四苦八苦につながっていくわけです。ですから、「苦につながることはするな」ということになってきます。これを意識側の「体験/想像」からみれば、「苦につながるような体験/想像を慎め」であり、これを習慣化すれば、無意識側に追い込むことができ、これが表象系非意識として実践されることになります。戒が非意識的に板についてくると、逆に意識側の「体験/想像」も整えられてくるという相乗的入出力関係が成立します。

リアル(環境・自分)という「意識の生滅のおおもと」は、まったく、意識の思い通りになりません。穏やかな日もあれば、大地震の日もあります。よい出会いもあれば、悪い出会いもあります。天使の自分もあれば、よこしまな自分もあります。意識で制御はできないのです。できることは、これらの「体験/想像」から必然的に生ずる「苦」を極力減らすように「の習慣化」をするのみのようです。

は同じ非意識の中で、直感が入力となります。直感リアルとの原初的出会いです。リアルと想像界の最初の接触面である直感では、主客の別もなければ、概念も意味も発生しません。もっとも純粋な「リアル感受」といってもいいと思います。両義性のこの接触面を想像界側(意識側)から見ると、一でもあり多様体でもあるリアルを意識側が勝手に分節し三次元化し、さんざ悪さをしますので、リアルと一体の直感から非意識のまま上記のようなへ移行するのが自然ななりゆきではないでしょうか。

(2)定について

については、入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 定 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)洞察 → 定 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)思考/意味化 ⇔ 定 (表象系意識との相互入出力関係)

i)の習慣化(諸悪莫作 衆善奉行)によりリアルからの入力のブレがなくなってくると、自然とこころの様相は浄化され、「禅」の状態に入りやすくなります。これを意識の側から行うのが、iii)の思考/意味化からのアプローチです。すなわち、「察する」における表象とは、イメージと概念(記号・言語による)の交差点たる「思考・思量」ですが、この意識の王様たる「思考・思量」を手放すというアプローチが「非思量」でありの意識状態です。逆に、をつかむと、「思考・思量」が頭の中を通過しても、落ち着いてやりすごせるという安楽な世界が出現します(いわゆる、「自浄其意」の実現といってもいいでしょう)。また、ii)の洞察ですが、文字通り、洞は空と同じですから、何も介せずにリアルを直接「察する」という意味になります。この直接「察した」ものをそのまま、は表象する、すなわち、何も「思量せず」に受け入れるということになります。

(3)智慧について

最後は智慧です。入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 智慧 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)直観 → 智慧 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)分析/理解 ⇔ 智慧 (表象系意識との相互入出力関係)

i)はいうまでもなく、「禅」→般若の「智慧」の関係ですね。戒→定→慧という仏道の王道を智慧という「理」で表象します。ii)直観は、リアルを理屈抜きに直接把握することをさします(これが意識化すると、なんらかの「分類」にしたがって、名前付けがなされたりします)。直観がすなわち、純粋な思念の彼岸たる智慧へもたらされます。また、iii)は分析/理解という意識側からのアプローチです。「分析/理解」というのは、「思考」とならんで、人間脳の癒しがたい代表的意識形態ですね。「分かった」というのが、この意識の最大の誤謬です。なにせ、ある対象をいくつかに「分けて」これをあわせれば「一切」といって全部「分かった」と「理解」しているのですから。なにも、「分ける」必要はありません。リアルはもともと1つの「空」の世界。文字通り「分けられない=分からない」世界が実相なのです。このリアルを直接表象する智慧に気づきなさい、といっているのですね。これは、世間や意識の分別的知恵でなく、無分別的般若の智慧ということです。逆に、智慧をつかむと、本質を外さない「分析/理解」で深みがでてきます。なお、蛇足ながら、この文章のように理で智慧を表現しようとすると、ほんとうにまだらこしくなりますね。 

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その4~知覚系非意識~

Photo だいぶ間があいてしまい、失礼しました。さて、いよいよ、「悟り系」??について仮説を進めてみます。まずは、左図をよく見てください。前回の「無意識系」と「意識系」の中間に「非意識系」をピンクで挿入しています。左側のボロメオの輪のうち、無意識系Rと意識系(I(感) → I-S(察) →S(観))の重なり合う部位(R-I → R-I-S →S-R)が「非意識系」です。意識系がわれわれの心に立ち現れる(つまり、現象として分節化・差異化・非対称化される)以前の、「世界がいっしょくた」の差異のないいわば平等の世界、つまり、対称性を備える(現象前のこの段階で、現象後に分節化する対象はすべて同じ資格をもつという意味、すなわち入れ替え可能)というのが、この「非意識系」です。 

初回に、「つまり、最終的には意識世界①、②、③各々について、それ以前の世界があることを言いたい為なのですね。

これを、「感ずる」に対して「直感」  「考察する」に対して「洞察」
    「観ずる」に対して「直観」

というワードを充ててみたいと思っています。
いかにも意識の下で分別的に働いているように思われますが、実は、対象と一体化した上での心の働きだと考えています。
いわば、意識に対して非意識(あくまで無意識ではない) 」と書きました。

これを、上図の「非意識系」のマトリクスに入れてみました。

これは、以下の「こころのメタプロセス」(と名づけます)にあてはめますと、2.「受:知覚系」に対応しています。

【こころのメタプロセス】

1.「色:現象系」=外部データを入力する(自然界、他人に接する)
  「識:想起系」=内部データを読み出す(記憶、知識を想起する、生理欲が起こる)
2.「受:知覚系」=データをメモリに記憶する
3.「想:表象系」=プログラムに従って演算回路で演算を行う
4.「行:判断系」=演算の結果を確定する
5.「色:表現系」=外部へデータを出力する(身・口・意で外へ働きかけを行う)
  「識:記憶系」=内部記憶装置へデータを書き込む(経験知として記憶する)

つまりこころのメタプロセスにおいて、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」がまずあり、次にこころのうち「受」:知覚系(INPUT)が生起し、まず非意識系直感→洞察→直観の流れを介して意識系の知覚→認知→分類に表面化するわけです。(なお、カントは「純粋理性批判」でここでの「直感」に「直観」の文言を当てているようですが)

まとめると、

リアル(環境、自分)【色(現象系)、識(想起系)】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【非意識系の受(知覚系)】

↓   ↓   ↓

知覚→認知→分類【意識系の受(知覚系)】

という関係に整理できます。

では、「想」(表象系)と「行」(判断系)はどうなるのでしょうか(上図?の部分。)

(つづく)

獅子鷹

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無意識の音楽

週末に、所属するオーケストラで「オーケストラワークショップ」という催しがありました。これは地域の文化活性化への貢献を目指して、熊谷市近隣の小中学生のプレイヤーと所属オケのメンバーが一体となって協力し、短期間で(たった4回の練習!!)オケの名曲演奏に挑戦し、成果を発表するというもので、今回で5回目の試みで、着実に定着化しているようです。

今回のプログラムは以下の通りでした。

第一部

ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」より前奏曲

ビゼー「アルルの女」第一組曲より前奏曲、メヌエット 第二組曲よりファランドール

第二部

ドヴォルザーク「スラヴ舞曲第8番」

チャイコフスキー「白鳥の湖」より情景、終曲

「まだ大人の音楽には慣れていないが、純真でひたむきな小中学生」と「経験だけがたより?のよく言えば多士済々、悪く言えば烏合の衆?たるオケメン」のインテグレーションをする指揮者も大変といえば大変。おかげで、2回の振り間違いをする始末。。とはいえ、なんとか破綻なく、「本番だけに強い」伝統も生きていたみたいでした。(なんのこっちゃ)

「破綻なく終わった」といいましたが、じつはそう言い切れないところがあります。

というのも、ステリハで一つの「事件」がありました。「アルルの女」第2組曲の終曲「ファランドール」はご存知のように出だしこそは統一テーマが結構ゆったりと全奏されますが、途中からAllegro vivo e decicoの四分のニ拍子でppppのTambの刻みから始まってffffの大合奏にいたるまで、延々と熱狂が拡大していき、最後は「手の舞い足の踏むところを知らず」状態で終わるというもの。実はこの間にビゼーのアッチェルランド指示は一つもありません。。にもかかわらず、たいていの演奏は自然と前のめりになるのですね。これ、「無意識」で「自然」ですね。

事件は起きました。全奏がffffに達してまもなく、満を持して中学生の大太鼓の拍打ちが加わります。「ドン」「ドン」どんどん・・。思わず指揮者は演奏を止めます。明らかに従前より速いテンポで一人旅になってしまったのです。指揮者曰く「もしあなたが皆を困らせようとしてたたくならそれでもいいです。そうでなければ、きちんと意識してテンポを刻んで」

本番を前にした昼食時、指揮者と話しました。

私「あれは無意識になってしまうんでしょうね。」

指揮者「無意識はいいんだけど、まずは「意識的」にテンポを把握してからの無意識でないとね。」

そして本番。やはりスイッチが入ってしまったようです。ステリハ以上に速いテンポで、管楽器の刻みは空転しかけた。。崩壊か。。そこは年の功。「意識的」にさりげなくぎりぎりのところで崩壊を免れ、むしろ、狂喜乱舞の大熱演となった。。

たぶん、いろんな意味でいい経験になっただろうと思います。

獅子鷹

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