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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その5~表象系非意識~

さて、いよいよ「想:表象系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」後、「受」:知覚系(INPUT)が生起し、知覚系非意識(直感→洞察→直観)を介して知覚系意識(知覚→認知→分類)が表面化します。これは、いわば、リアルとの接触をこころが了解した段階です。コンピュータでは、データをメモリに格納した段階になります。

次に、いよいよこころのメタプロセスのメインイベントである、「想」:表象系(データを読み出してプログラムを実行する段階にあたります)になります。Photo_2      

  ここで、表象系の非意識として、「戒→定→智慧」の概念を提示したいと思います。戒・定・慧といえば、「三学」といって仏教における「覚りへの道」そのものですね。まず、表象系非意識戒→定→智慧」の入出力関係を整理しておきます。                                                     

リアル(環境、自分)【色:現象系、識:想起系】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【受:知覚系非意識】 → 戒   →定     →智慧【想:表象系非意識】

↓   ↓   ↓                ↓↑    ↓↑     ↓↑

知覚→認知→分類【受:知覚系意識】 →体験/想像→思考/意味→分析/理解【想:表象系意識】                  

(1)戒について

「感ずる」に対応する表象系非意識を、いきなりという概念で提示しました。何かピンときませんね。入力関係を見ますと、表象系意識の「体験/想像」と相互に入出力関係あり、と定義しています。ここは、表象系意識の側から見てみます。

表象系意識「体験/想像」とは、「知覚」した対象を具体的にイメージする段階です。いわば、原初的な「幻想」が発生するわけです。この「幻想」に基づき、いろんな感情(美醜、喜怒哀楽・・)が発生し、いわゆる四苦八苦につながっていくわけです。ですから、「苦につながることはするな」ということになってきます。これを意識側の「体験/想像」からみれば、「苦につながるような体験/想像を慎め」であり、これを習慣化すれば、無意識側に追い込むことができ、これが表象系非意識として実践されることになります。戒が非意識的に板についてくると、逆に意識側の「体験/想像」も整えられてくるという相乗的入出力関係が成立します。

リアル(環境・自分)という「意識の生滅のおおもと」は、まったく、意識の思い通りになりません。穏やかな日もあれば、大地震の日もあります。よい出会いもあれば、悪い出会いもあります。天使の自分もあれば、よこしまな自分もあります。意識で制御はできないのです。できることは、これらの「体験/想像」から必然的に生ずる「苦」を極力減らすように「の習慣化」をするのみのようです。

は同じ非意識の中で、直感が入力となります。直感リアルとの原初的出会いです。リアルと想像界の最初の接触面である直感では、主客の別もなければ、概念も意味も発生しません。もっとも純粋な「リアル感受」といってもいいと思います。両義性のこの接触面を想像界側(意識側)から見ると、一でもあり多様体でもあるリアルを意識側が勝手に分節し三次元化し、さんざ悪さをしますので、リアルと一体の直感から非意識のまま上記のようなへ移行するのが自然ななりゆきではないでしょうか。

(2)定について

については、入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 定 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)洞察 → 定 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)思考/意味化 ⇔ 定 (表象系意識との相互入出力関係)

i)の習慣化(諸悪莫作 衆善奉行)によりリアルからの入力のブレがなくなってくると、自然とこころの様相は浄化され、「禅」の状態に入りやすくなります。これを意識の側から行うのが、iii)の思考/意味化からのアプローチです。すなわち、「察する」における表象とは、イメージと概念(記号・言語による)の交差点たる「思考・思量」ですが、この意識の王様たる「思考・思量」を手放すというアプローチが「非思量」でありの意識状態です。逆に、をつかむと、「思考・思量」が頭の中を通過しても、落ち着いてやりすごせるという安楽な世界が出現します(いわゆる、「自浄其意」の実現といってもいいでしょう)。また、ii)の洞察ですが、文字通り、洞は空と同じですから、何も介せずにリアルを直接「察する」という意味になります。この直接「察した」ものをそのまま、は表象する、すなわち、何も「思量せず」に受け入れるということになります。

(3)智慧について

最後は智慧です。入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 智慧 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)直観 → 智慧 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)分析/理解 ⇔ 智慧 (表象系意識との相互入出力関係)

i)はいうまでもなく、「禅」→般若の「智慧」の関係ですね。戒→定→慧という仏道の王道を智慧という「理」で表象します。ii)直観は、リアルを理屈抜きに直接把握することをさします(これが意識化すると、なんらかの「分類」にしたがって、名前付けがなされたりします)。直観がすなわち、純粋な思念の彼岸たる智慧へもたらされます。また、iii)は分析/理解という意識側からのアプローチです。「分析/理解」というのは、「思考」とならんで、人間脳の癒しがたい代表的意識形態ですね。「分かった」というのが、この意識の最大の誤謬です。なにせ、ある対象をいくつかに「分けて」これをあわせれば「一切」といって全部「分かった」と「理解」しているのですから。なにも、「分ける」必要はありません。リアルはもともと1つの「空」の世界。文字通り「分けられない=分からない」世界が実相なのです。このリアルを直接表象する智慧に気づきなさい、といっているのですね。これは、世間や意識の分別的知恵でなく、無分別的般若の智慧ということです。逆に、智慧をつかむと、本質を外さない「分析/理解」で深みがでてきます。なお、蛇足ながら、この文章のように理で智慧を表現しようとすると、ほんとうにまだらこしくなりますね。 

獅子鷹

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