« 今年の漢字は「変」 | トップページ | フィンランディアの普遍性とは »

呼吸はこころである

人は生まれて死ぬまで「呼吸」のお世話になる。おぎゃーと声を発する前に人生最初の「息」を吸い、「この人生は有意義な(あるいは無意味な?)人生であった」と呟き人生最後の息を吐いてこの世を去る。この間、人は休むことなく呼吸を繰り返す。感情の乱れから過吸状態になり、無意識にため息が出てしまう。こころを落ち着けるために、努めて深呼吸をする。。無意識・意識に関わらず、呼吸は私たちの生活にぴったり寄り添っており、こころそのものといっていい(実際、「息」は「自」らの「心」と読める)。

息は「呼」と「吸」の繰り返しからなる。

これを振り子の運動に喩えてみる。振り子が周期運動をするためには、錘を真下から斜め上に引き上げる必要がある。この行為が人生最初の「吸」である。息をいっぱいに吸うと次の瞬間息を吐く「呼」に転ずる。この転換点が振り子運動の「端」である。この端では錘は運動自体を一瞬静止する(エネルギー保存則では位置エネルギー最大、運動エネルギーゼロ)。人でいうと絶景を見たときに思わず息を呑んで目に焼き付ける行為というのだろうか(ニーチェのパースペクティズム(=一瞬の眺望をあたかも永遠の存在と錯覚すること)の現前ともいえる)。とにかく「生」をもっとも鮮やかに感じる瞬間であろう。

次に息を「呼」に転じると、息をハーッと吐き、やがて苦しくなって、息を「吸」に転ずる瞬間がやってくる。振り子の錘が「端」からやおら真下を目指して動き出し、いよいよ加速度を増して真下を一瞬にして最大速度で通過したその瞬間のことである。この時点で位置エネルギーはゼロ、運動エネルギーは最大。人でいうと息を吐ききり、もう吐けない、苦しい、死んでしまう、すべてがぐるぐる回り、思考するどころでなくなる状態。つまり「死」にもっとも近づく瞬間ではないか。

この死にふれた瞬間錘は、振り子の反対側に飛び出して「吸」が復活するのである。そしてまた反対の端まで振れ、また戻る。これの繰り返し。そして空気の摩擦などにより、だんだん振り幅が縮まり、やがて静止する(本当の死を迎える)。

ふつうはなんとなく呼吸をしているが、実は、一呼一吸の度に「生死」を繰り返していることに気づくといろいろなことがわかってくる。

たとえば、自殺を考える。死にたいと思って死ぬ人は(殉教者を除いて)まずいまい。だれでも生きたいのだ。こんなに生きたいのに世の中が思い通りにならない。「生きたい」といってこころが発散しきったまま自らの命を絶つ。。つまり、振り子が端に行ったときに自らの錘をつなぐ糸を切ってしまうのである。錘の運命はいかばかりか。。死後、錘(自分)はどこへいってしまうのか。生と死が離ればなれとなり、股裂きに遭ったような死。こんな悲劇はないと思う。

また、溺死は一番残酷な死に方といわれる(経験談がないので断定は避ける)。やはり、生きたい(酸素を吸いたい)のにかなわずに、生の端に向かう途上で死なざるを得ないからではないのか。。

仏教や東洋医学では呼吸の「呼」を重んじる。「呼」を大切にせよ。「吸」は自然にまかせよ、と。つまり、「呼」を大切にして、息を吐ききっていったん死にきれ。すると、死の底から自然と復活し、我の消失した覚の境地であたらしい生が自然と他力的に現前するというのである。キリストは十字架で磔死後、神の子イエスとして復活した。彼は身を以って呼吸の大切さを示したとさえいえるのだ。瞬間瞬間の呼吸でこの境地を体得できれば、なんと楽しいことか。

私はフレンチホルンを吹いているが、演奏自体が呼吸そのものである。音をだす間は「呼」つまり死に向かう聖なる瞬間なのだ。「吸」はそのための準備である。そもそも「呼」という字は声や音を立てる(呼ぶ)という意味であるから、弦楽器であれ管楽器であれ打楽器であれ声楽であれ、あらゆる演奏は死に触れる聖なる行為といえる。音楽は理屈抜きにリアルに触れる行為なのである。だから、やめられない。。

ちなみに、呼吸は意識していないときは本能的な身体のもの、意識的に統御するときはこころのものである。つまり、こころと身体を絶対矛盾的に統合する「魂」のものである。

呼吸を制する者、魂/こころを制する。すなわち、自らを律することができるのである。

獅子鷹

|

« 今年の漢字は「変」 | トップページ | フィンランディアの普遍性とは »

心と体」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

音楽」カテゴリの記事

思考」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 呼吸はこころである:

« 今年の漢字は「変」 | トップページ | フィンランディアの普遍性とは »