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2009年1月

フィンランディアの普遍性とは

フィンランディアは交響曲第二番とならんで、シベリウスの代表作である。いうまでもなく、19世紀末以来の帝政ロシアの圧政からの独立を象徴するフィンランドの国民的楽曲であると同時に、独立後のスターリンなどによるソ連の露骨な圧迫時にもフィンランドの心の拠り所となってきた曲である。しかも、今日ではフィンランドはもとより、欧米、日本を始め世界で人気を得ており、当のロシアでさえ演奏されているのである。

私は中学生のときに初めてこの曲を聴いたが、なにやら底知れぬ怖さに圧倒され、中間部の旋律の美しさに圧倒され、最後の盛り上がりに圧倒されたことを覚えている。もちろん、作曲経緯や曲想の理解など知る由もない時分である。

それ以降、この曲がなんだか自分の一部であるような感覚がどこかにあり、演奏したり聴いたりするたびに不思議な感覚に襲われるのである。好きとか嫌いという感情を超えているのだ。これは一体何なのか。。演奏機会もなんだか私にいやにまとわりついている。最初は、中3のとき、ブラスバンドのコンクールの自由曲で。次は、大学に入学したての4月の大学オケ演奏会でいきなり前プロとしてホルンの1stを吹かされたとき。最近は所属オケの定演でのシベ2直後のアンコールで、等々。

この一見民族固有の曲が、世界的に愛される理由、また自分の一部であるかのように感じられる理由は何なのか。その答えが、昨日のNHK「アマデウス」シリーズのフィンランディアをヒントに一応得られた。

最大のヒントは他ならぬシベリウスの言ったといわれる以下の言葉である。

「作曲にピアノは要らない。静けさと自然があればいい」

武満徹も「作曲とは曲を作り出すのではなく、自然に存在する音をそのまま紡ぎだすだけだ」という趣旨のことをいっているが、これでピンときたのだ。

「アマデウス」での分析の概要は以下の通りである(一部私の追加・解釈補正あり)。

①アンダンテ・ソステヌート(嬰ハ短調):金管の主旋律でフィンランドの人々の「絶望」を表す。これを木管の「森」→弦の「大地」で受ける。

②アレグロ・モデラート:トランペットの弱起のファンファーレで「闘争」が始まる。

③アレグロ(変イ長調):闘争に打ち勝ち、「勝利」に向かう。

④中間部:コラール(フィンランド讃歌)

⑤再現部:③が発展的に再現され、圧倒的に幕を閉じる。

まさに、「絶望」→「闘争」→「勝利」と絵に描いたような筋書きである。ここまではいい。

次に、シベリウス自身が重きを置いた「自然」に着目した、普遍性の解釈を試みる。つまり、「フィンランドの」という限定を外した、内なる自然「こころ」のプロセスに置換してみたい。

①金管の主旋律で人々の根源的な「悪・苦」を表す。これを木管の「森」→弦の「大地」で受ける。つまり、序奏の短調のモチーフは、外なる自然である「森」や「大地」、内なる自然である「こころ」の実相を表象しているのだ。自然は内も外も穏やかとは限らない。思い通りにならないものなのだ。つまり、「悪」を抱え込んでいる。人には生きる限り「苦」はついて回るものなのだ。

②でも、やはり「悪・苦」はいやだ。トランペットの弱起のファンファーレで自己内の「悪・苦」との「闘争」が始まる。トランペットが「悪・苦」とたたかう己とすれば、これを否定する序奏の短調のモチーフや「シンコペーション」のモチーフ(悪の自然)が立ちはだかる。このせめぎ合いの果てに、

③5拍子相当のティンパニが静かに立ち上がり、力強く盛り上がって「悪・苦」に対する「勝利」の勝ち鬨を上げる。弱起5拍子というまだ不確かな歩みから確信の4拍子に向かうのである。しかし、繰り返し前のホルンの「シンコペーション」のモチーフでまだ「悪・苦」が不気味に遠吠えをするが、すぐさまトランペットのファンファーレで打ち消し、大きな長調の山を作って「悪・苦」を克服する。

④これまでに自然の根源的な「悪・苦」を克服したが、ここで、善悪とか苦楽とか闘争・克服といった2元的な対立を超えた境地に達する。木管による、序奏の短調のモチーフから転じた美しいメロディ(整えられた内なる自然・すなわち心である)は、さざなみのような弦のささやき(整えられた外の自然・大地である)に包まれて天上の歌を歌うのである(フィンランド讃歌)

⑤この境地に達すれば、ふとわれに返れば、現実は言祝ぐべきものとなる。すなわち、ベート-ベン同様「歓喜の歌」で終わることになる。この段階で以前執拗に立ちはだかった「シンコペーション」のモチーフから悪は消え去り、序奏の短調のモチーフから長調に転じたフィンランド讃歌の大合唱を支える、大地のモチーフへと再生して終わる。

こうして、フィンランディアは、ベートーベン第9と同様、こころの様相の弁証法的プロセスを見事に内包しているため、普遍性を得たといえると思う。

どおりで、自分の心の一部のような気がしたわけだなあ。もっとも、「私のフィンランディア」の終わりは遠い。。

獅子鷹

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