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2009年2月

慧玄さん曰く「請う其の本を努めよ」

昨日、東京国立博物館で開催されている妙心寺の特別展を観に行った。開山の無相大師関山慧玄(かんざんえげん)の没後650年を2年後に控え、これに因んでのものである。

私は慧玄さん(親しみを込めてさん付けで呼ばせてもらう)が大好きである。

慧玄さんは私の同郷信州の出で、鎌倉から南北朝にかけての臨済宗の禅僧である。30歳で鎌倉建長寺で南浦紹明(大応国師)に師事。師示寂後、建長寺における開山蘭渓道隆五十年忌出席中、京都に傑物在ると聞くや否や京都大徳寺に向かい、宗峰妙超(大燈国師)に参禅する。そして53歳で開悟し、宗峰がこれを印可証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。

もう悟りを開いたのだから、慧玄さんは自由である。悟後の修行に美濃伊深の里に草庵を結んで隠棲していた(現在の岐阜県美濃加茂市。この場所には現在正眼寺という道場があり、巨人軍の川上哲治監督もここで坐禅修行をしている)。この間、慧玄さんは昼間は近くの農家のお手伝いや草履買いなどの御用聞き、夜は山中での坐禅三昧の日々を送っていた。

一方、都では花園上皇が離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。宗峰がまな弟子の慧玄さんを推挙したのだ。

さあ、大変だ。美濃の山奥に、都からのきらびやかな勅使がやってきた。里の人はたまげた。草履買いなどで重宝していたあの人のいいおっさんは、実はどえらい人だったんだあ。

慧玄さんは最初は都行きを固辞したが、やはり勅命にはかなわない。都からのお迎えの日、敬愛する里の人が別れを惜しむかのようにいつまでもついてきた。でもいつまでもついていくわけにいかない。この場所を「関」として最後の別れをした。(この場所が現在の岐阜県関市である)

心ならずも都に召し出だされて、妙心寺の開山となった慧玄さんは、形式に拘らず厳しく弟子を指導し、妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかったという。また、ふらっと、行脚修行にでかけて花園上皇に呼び戻されるなどもしたようである。

あるとき、慧玄さんは旅の支度をして二祖授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。時に84歳である。

さて、妙心寺特別展である。

入り口に慧玄さんの坐像が安置されていた。江戸時代300年忌時の制作である。そのまっすぐな視線、謹厳実直でいて、なにか温かみを感じる雰囲気。慧玄さんがそこにいるかのようでなにか懐かしい感じがした。大好きな慧玄さん。。慧玄さんのような懐の深い人になりたい。

あとは、慧玄さんの着ていたというボロボロの袈裟や質素な頭陀袋をみたり、昨日から展示が始まった国宝「瓢鯰図(すべすべの瓢箪でぬるぬるの鯰をどうやって捕らえるかという禅の公案に因む)」の人だかりを遠目にみて、早々に退散した。

私にとっては、臨済禅の法灯を現在に伝える種々の展示物より、慧玄さんの「目指しているもの」がたとえわずかでもそこここに横溢しているのを見届けたかっただけかもしれない。

慧玄さんは語録だの書物だのは一切残さなかったが、数少ない言葉※として「請うその本を努めよ」が残っている。これこそ慧玄さんの「目指しているもの」そのものである。心ある人はぜひ参究していただきたい。

「慧玄が這裏(しゃり)に生死なし」「柏樹子(はくじゅし)の話に賊機あり」もある。

獅子鷹

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