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2011年6月

チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調Op.64

チャイコフスキーは、感性豊かなひとでした。感性というと喜怒哀楽のありとあらゆる情念がありますが、どちらかというと悲観的で暗い情緒を好む人でした。これは彼の神経質なところのあるパーソナリティもさることながら、ロシアという国のどんよりとした、陰鬱で寒い気候の影響や、ロシア革命前夜のブルジョア・労働者階級等の社会的不合理による自己実現の難しさ、当時の強国トルコのスラヴ民族圧迫や露土戦争といった暗い国際情勢も多分に影響しているはずです。いまにも押しつぶされるような内外の陰鬱な環境の中で、チャイコフスキーは、作曲にせめてもの自己実現を託したといえるでしょう。

チャイコフスキーの後期3大交響曲の真ん中にあたるこの曲は、前後を性格付けの明瞭な2曲に挟まれて、なにか中途半端なものと言われることが多いようです(後述のように、チャイコフスキー自身も最初はこの曲を成功と認めませんでした)。前には、抗うことのできない激烈な運命とこれの裏返しの情熱、強烈な愛情といった情緒を歌い上げた交響曲第4番がありますし、後には、いうまでもなく、人生の悲劇、恐怖、絶望、死といった情緒を徹底的に追及した交響曲第6番「悲愴」が控えています。こんな強烈な個性ある兄と弟がいたら、真ん中の私はどうなるのでしょうか。まあ、自己主張などできまへん。おとなしく、兄弟の顔色をうかがって、おそるおそる控えめで穏やかな情緒表現をするしかないのでしょう。

「真ん中の私」こと交響曲第5番は、弟の第4番と同様、「運命」の動機に貫かれています。しかし、第4番は、自身の結婚の失敗(自殺まで試みた)や戦争という極端で激烈な「運命」を明瞭に扱っているのに対し、第5番のほうは、かならずしも「運命」という表題性は明確ではありませんが、「運命」に基づく不幸⇔幸福の振幅の振れが第4番ほど大きくなく、なにか、あこがれ・ほっとする想い・ほのぼのとした穏やかな情緒があるようです。また、深い思索や知的な抒情性(?)をかもし出しているという評もあります。先ほど「中途半端な性格」といいましたが、どうしてどうして、情緒の振れ幅の小さい「中庸」さは実は偉大なのです。チャイコフスキーの「三兄弟」では、独創的な「悲愴」は別格としても、第4番をしのぐ人気を得ているといえるでしょう。

チャイコフスキーは、自分の感性をストレートに表現できた第4番と第6番「悲愴」は最初からお気に入りでしたが、この第5番は情緒の扱いが自分としては不満足でした。初演は完成と同年の1888115日にペテルブルグで彼自身の指揮で行われましたが、観衆の受けは良かったのに(批評家にはいまいち)、フォン・メック婦人宛ての手紙では「この曲には何か余分で雑多なもの、不誠実でわざとらしいものがあります・・」と書き、失敗とみなしています。しかし、その後、各地のコンサートで大成功を収め、世評も上々でした。さすがのチャイコフスキーも「私はこれまでこの曲を低く評価していたが、今ではこの曲を以前よりずっと好んでいる」といっています。天才作曲家もこの天下の名曲の真価判断を見誤り、聴き手の評価という「運命」に翻弄されたといえましょう。まさにこの曲の「運命」の動機の進行順序そのままにチャイコフスキー自身のこの曲の評価が「めでたし」となったのでした。

1楽章 Andante - Allegro con anima ホ短調、序奏付きのソナタ形式

序奏ではクラリネットが「運命」の動機を深いため息のように吹く。提示部は、断続的な弦の刻みにからんでクラリネットとファゴットが第1主題を出す。哀愁感のある推移主題の後、第2主題はヴァイオリンによる流麗な旋律。その後、陰鬱な運命のいたずらからちょっと脱して、なだらかな幸福感につつまれたワルツ調の副次主題が癒しを与える。展開部はホルンの自然のさえずりから入る。型どおりの再現の後、第1主題によるコーダとなり、盛り上がった後暗く重い結末となる。

2楽章 Andante cantabile, con alcuna licenza ニ長調、複合三部形式

短い弦の序奏のあとで鳴らされる主要主題はホルンの美しい調べが印象的。愛らしくもどこか悲しい副主題も美しい。中間部にはいると、クラリネットが物悲しい旋律を示す。「運命」の動機は、中間部のクライマックスと、主部が復帰してコーダに入る直前に激しく出る。

3楽章 Valse. Allegro moderato イ長調、複合三部形式

通常はスケルツオが入るべきところチャイコフスキーは純然たるワルツを採用した。主部の主題はヴァイオリンの典雅なメロディ。中間部は弦による細かい音型が特徴。この音型に乗ったまま、主部の主題が復帰してくる。「運命」の動機はコーダでクラリネットとファゴットに静かに現れる。

4楽章 Finale.Andante maestoso - Allegro vivace(Alla breve) ホ長調、序奏付きのソナタ形式

序奏は長調に転じた「運命」の動機で、「運命」を克服したかのように厳かに始まる。主部は、第1主題はまるで「運命」を克服するかのようにお祭り騒ぎ的な民族舞踊調で激しく繰り出される。第2主題はこれと対照的な穏やかなもの。コデッタではまた「運命」の動機が扱われる。展開部は、弦が第1主題のリズムを刻み、第2主題が変奏される。徐々にスピードが落ちたところでいきなり再現部となり劇的に盛り上がり、全休止(ここで拍手をしないように!!)をはさんで勝利感に満ちたコーダへなだれ込んでいく。ここでは「運命」の動機が高らかに奏され、第1楽章の第1主題を金管、オーボエで華やかに打ち上げて豪快に締めくくる。

獅子鷹

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ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調Op.70

ドヴォルザークは、ブラームスに見出され、世界的な作曲家として認められました。その恩もあり彼はブラームスを師と仰ぎ、敬愛していました。あるとき、ウイーンで師の新作の交響曲をピアノで弾いて聴かされました。そしてベルリンで師自身の指揮での演奏(18841月)に立会い、まことに衝撃を受けたのでした。交響曲第6番をイギリスで認められ、新たな交響曲をロンドンから委嘱されていたドヴォルザークは、このような状況下でこの交響曲第7番(以下ドヴォ7)を1884年末から翌年にかけて書き上げました。

ブラームスが衝撃を与えた曲が交響曲第3番。周知のようにドヴォ7はブラ3と楽章構成など似通っており、また随所にブラームスの旋律やモチーフが感じられ、師の大きな影響が認められます。形式を重んじるドイツ「新古典派」の重鎮の後継という意味では、この曲はさしずめ「ブラ」にあたるといっていいかもしれません。おや?5番といえば、9番とならんで作曲家にとって鬼門とも言えるナンバー。ベートーヴェン5番、ショスタコーヴィチ5番、マーラー5番、チャイコフスキー5番・・。なにやら自分ではどうすることもできない種々の「運命」とやらで苦悩するが、これを克服して最後は「めでたし」ともっていく一筋縄ではいかないやつ(あ、ブラ3も一説ではブラームスの「運命」といわれていますね)。そういう意味では、この曲の第一楽章冒頭のビオラ、チェロによるニ短調の不安げな第一主題は「運命」の主題ともいえますし、紆余曲折を経て、第4楽章の最終10小節でようやくニ長調になってffで堂々と終わることで解決をみる終わり方は、長さはちがいますが、ショスタコ5番の終わり方(これもニ長調)にも似て、ある種の解決感、達成感がありほっと一安心できるものです。

こういう鬼門を通過して大作曲家は一皮むけるものですが、ドヴォルザークもこの曲で見事に通過。ロンドン初演後、ウイーン、ベルリン、アメリカ各都市で次々と成功を収めました。あとは野となれ山となれ。8番、9番「新世界より」と、さらに独自の境地を拓いていくのでした。

もとより、ドヴォ7は、単に「ブラームスの影響」や先人やブラームス以外の同時代の作曲家(リスト、ワーグナー、チャイコフスキーなどにも触発されている)の影響といった文脈だけでは語れません。ご存知のように、ドヴォルザークの生まれ育ったボヘミアの、自然の豊かさあふれる素朴な旋律や民謡に満ちています。たとえば第2楽章の五音音階(ドレミソラ)を用いた、大自然の真っ只中にいるようなメロディは「新世界より」の有名な第2楽章の「家路」のメロディにも似て、すべての事物の輪郭が消失したような郷愁的な思いをかきたてます。また、第3楽章スケルツオはボヘミア民族舞踊のフリアントの特徴を取り入れています。それだけではありません。極めつけはいうまでもなく彼自身の天才的な曲想の豊かさです。これについてはブラームスも舌を巻いています。師をして「シューベルト級の天才」「あの男の捨てたメロディの破片を、他の誰もが奪い取るであろう」と言わしめているのです。(もっとも、ドヴォルザーク自身の、よく言えば物事に拘らない、悪く言えば移り気な性格からか、シューベルト同様音楽が冗漫に流れるきらいも指摘されますが・・)

結論的には、ドイツ古典派のかっちりした伝統的な交響曲の構造の上に、ボヘミアの自然や民族の誇りをベースとしたドヴォルザーク独自の溢れ出るような曲想を散りばめた魅力的な名曲に仕上がっており、一度聴いたらまずファンとなること請け合いです。難をいえば、8,9番に比べ、人口に膾炙していないところと、オーケストレーションにやや拙さがあり、演奏が非常に難しい点でしょうか。

・Ⅰ. Allegro maestoso

・Ⅱ. Poco Adagio

・Ⅲ. Scherzo: Vivace

・Ⅳ. Finale: Allegro

獅子鷹

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シューマン 交響曲第1番 「春」 変ロ長調Op.38

シューマンは、ロマン派音楽の巨頭ですが、音楽のみならず、その生涯そのものがロマンチックな「ファンタジーの世界」にいたような人でした。ロマン派(とくにドイツ・ロマン派)とは、音楽のみならず、建築・絵画・詩・散文等の芸術全体に起こった現象です。音楽以外は、18世紀末のベートーヴェンの頃には早くも全盛期でしたが、こと音楽に関しては、少し遅れて19世紀前半のシューマンを以って華やかな頂点に達したといえます。

ザクセン地方の成功した書店の子として生まれたシューマンは、生まれながらにして全盛期の詩や文学のロマン主義に熱っぽく親しんでいました。彼は、ロマン派特有の現実を超えた詩的な世界を詩や散文で表現できることを知っていましたが、それでも言語表現から来る限界が付きまといます。しかし、音楽は言語をも超越した無限の表現可能性のあることを悟っていました。どうやらシューマンが音楽にのめり込むのは必然だったようです。

シューマンは20歳で音楽で身をたてることを決意し、ライプツイヒに出て、将来の伴侶となるクララ(このとき11歳)の父ヴィークに入門しました。最初は彼とクララは兄妹のような間柄でしたが、次第に愛し合い、クララと結婚の約束をします。しかし父ヴィークは絶対反対で、あらゆる手段を講じて邪魔をします。そしてようやく結婚できたのは、10年後のことでした(考えようによっては、10年間苦労したことで、シューマン(およびクララ)のロマン主義的芸術に陰影がいっそう刻み込まれることになり、シューマンの作曲およびクララのピアノ演奏の質的深化に、父ヴィークは貢献したともいえます)。

難局を乗り越えてほっとしたのか、ようやく長い冬を越えて春がやってきたとばかりに、たった4日間でスケッチを完成させたのが、交響曲第1番「春」です(1941年)。

一説では、無名の詩人アドルフ・ベドガー(Adolf Bottger)の詩、

O wende, wende deinen Lauf (Oh turn back, turn back your run)

Im Tale bluht der Fruhling auf! (In the valley, the spring blooms!)

に霊感を得て、書いたとも言われています(特に後半はドイツ語の韻律と冒頭ファンファーレのリズムがだいたい一致します)。

初演は1941331日メンデルスゾーンの指揮で、ライプツイヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により行われました。シューマンはメンデルスゾーンに「春の憧れに似た気分を管弦楽で表現したかった。冒頭のトランペットは高いところから呼び起こされるように響き、それに続く序奏は、すべてが緑色をおびてきて、蝶々が飛ぶのを暗示する。次のアレグロは、すべてがしだいに春めいてくるのを示す・・」と述べ、「こうしたことは作曲後に思い浮かんだことだ」といっています。つまり、シューマンは、作曲中は、うきうきした春の情趣と一体化してペンが自然と動き、ふと気づくとその意味合いを後付で認識できたということなのですね。人が真に現実に没頭(~に「夢中」といいますね)しているとき、現実自体は意識化されません。後で、「なるほどそうだったのか」と再認ないし意識で回想できるのみです(「夢見」もそうですよね。目覚めてから回想するものですよね。)。ここに、ロマン派音楽の真髄があらわになっているといえましょう。

なお、各楽章には次のような表題が与えられていましたが、改訂の際に削除されています。

1楽章 - Fruhlingsbeginn (Beginning of Spring)

2楽章 - Abend (Evening)

3楽章 - Frohe Gespielen (Merry Playmates)

4楽章 - Voller Fruhlings (Full Spring)

シューマンの交響曲には、玉石が混交し、巧拙が入り混じっているといわれます。これは、形式を重んずる構成ではなく、形を持った心情の流露であるため、激情を含む情熱が常に構成を凌駕するためとも言われています。押さえ切れない無限のロマンを最小限の交響曲という形式でようやく演奏という現実に繋ぎ止めているともいえましょう。

獅子鷹

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メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」 イ短調 Op.56

  メンデルスゾーンは、あの「結婚行進曲」や「メンコン」と称されるヴァイオリン協奏曲のように甘酸っぱくもロマンチックなメロディで知られたロマン派音楽の神童です。一年遅れてこの世に生まれ、同時期にロマン派音楽を体現したシューマンはメンデルスゾーンを「新たに現れたモーツアルト」と絶賛し、この友人を生涯あたたかい眼差しで見守りました。

ユダヤ人の裕福で教養ある家庭で生まれたメンデルスゾーンは、子供の頃から一流の家庭教師の下であらゆる教養を身につけましたが(ユダヤ人は差別で公立学校へ行けないという事情があったことに留意)、とりわけ音楽の才能は並外れており、7歳にしてピアノやヴァイオリンは大家のように弾きこなすわ、11歳にして年間50曲以上の作曲をこなすわで、12歳のとき出会ったあの老ゲーテ(かつてベートーヴェンを気難しい男と評した)をして「友人」と言わしめたほどでした。厳格な父は、経済的にも安定した自分の跡目(銀行業)を継がせるつもりでしたが、パリ音楽院長のケルビーニの評価(この子が音楽家にならなければ、世界の損失)を受けて、最終的に音楽家にすることにしました。さあ、メンデルスゾーンの将来は決まりました(彼は、父のいうことは何でも素直に聞き入れたのです)。

メンデルスゾーンが20歳になったとき、父のすすめで、見聞を広めるためにスコットランドを訪れます。彼は、その風景やバグパイプ、民族衣装に魅せられました。首都エディンバラのホリールード宮殿に来たときのことです。「・・礼拝堂は今や屋根がなく、草や蔦が生い茂っていた。そこの壊れた祭壇の前でメアリはスコットランド女王として即位したのでした。あたりすべては壊れ、朽ちている。そうして明るい空が覗き込んでいる。私は今日ここで私の『スコットランド交響曲』の出だしを思いついたのです」これがこの交響曲着想のきっかけでした。

メンデルスゾーンは、モーツアルト同様、速筆でしたが、スコットランド交響曲は例外で、完成は10年以上を経た1842年になります。なぜこんなに時間がかかったのでしょうか。スコットランドの風物を描写するだけでしたら、それこそ得意の速筆でなんなく完成させられたことでしょう。もちろん、大陸帰還後、彼は一流の音楽家として名声を馳せ、作曲に、ピアノに、指揮に、音楽教師にと、舞い込む仕事をすべて受け入れて高度なレベルでこなす多忙人だったこともあるでしょう。

この謎を解くことに正面から取り組んだ文献は残念ながら見当たりませんでしたが、ひとつの重大なヒントが、彼の書いた書簡の次の一節から垣間見れるように思います。

「・・私には民族の歌というものがありません。どんな悪魔もそれぞれの故国をもっているというのに・・」

ここからは推論ですが、ユダヤ人の出自であるメンデルスゾーンは、ドイツ社会で無意識にも差別の眼差しを受けていましたし(ナチスの時代では、メンデルスゾーンの曲は演奏を禁じられました)、スコットランド地方は、常にイングランドの配下で弱者として虐げられてきた歴史があります。この、「虐げられる者」としての、深い共感が、あの物悲しい出だしの旋律に込められていると考えます。そこでは、かつてはスコットランド王国の栄華を誇った宮殿が、今は廃墟となりはてている「諸行無常」が表層では歌われていますが、その深いところでは、民族(スコットランド人/ユダヤ人)の避け難い悲しい「運命」の叫びを繰り入れているように思います。いやしくも「運命」(しかも、民族の!!)を扱う交響曲は大抵重く、作曲に時間を要するものですからねえ(とくにマイノリティの主張をしのばせるとなると、より慎重にならざるを得ません)。こう考えると、第4楽章のコーダ後のイ長調のmaestosoの後奏は、冒頭の「運命」の主題の克服(長調化)ともみて取れ、民族(スコットランド人/ユダヤ人)の未来の幸をせめても音楽に託したともいえるかも知れません。

とはいえ、曲想は全般的に極端に重々しくならず、あくまでもスマートにさらりと描写然としたタッチはいかにもメンデルスゾーンらしいといえましょう。なお、初演は184233日、メンデルスゾーン自身の指揮、ライプツイヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により行われました。

1楽章 Andante con moto - Allegro un poco agitato イ短調 序奏付きのソナタ形式

2楽章 Vivace non troppo へ長調 ソナタ形式

3楽章 Adagio イ長調 ソナタ形式

4楽章 Allegro vivacissimoイ短調- Allegro maestoso assai イ長調 ソナタ形式

獅子鷹

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