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2012年4月

“福島”か“FUKUSHIMA”か?

今日のNHKラジオで、あるミュージシャンがこんな趣旨の発言をしていた。

「福島を表現するとき、“福島”では、地震・津波・放射能でダメージを受けた特定の場所の意味にとどまってしまう。わたしは“FUKUSHIMA”と表現したい。こう表現することで、福島の人々や地域の痛みの共有や復興への思いだけでなく、“HIROSHIMA”同様、二度とこのような過ちをおかしてはならないというメッセージとして世界に発信するという意味を込めている...」

基本的に賛成である。

“このような過ち”とは、単に、想定外(この言葉、免罪符として乱発されていないか)の地震・津波で、あの甚大な放射能汚染を引き起こし、美しい福島を死の土地(風評被害を煽っているのでは全くない!)をにしてしまったからだけではない。本質的には、原子力発電を推進してきた行政のあり方・エネルギー政策さらにはグローバル経済に完全に組み込まれている経済のあり方や日本という国の方向性まで突き詰めて考えよ、というメッセージになりうると私は思う。このようなメッセージを、象徴的に“FUKUSHIMA”という横文字に込めて、持続的にしかも世界に伝えるということは、恥ずかしいとも言えるくらいもたもたしている政府の尻をたたくという意味でも大事だと思う。

しかし、である。たとえば、先ほど福島を“死の土地”と表現したが、福島で復興に取り組んで、日々生き抜いている方々にとっては、とんでもない!と叱られるであろう。ことほど左様に、象徴的に“FUKUSHIMA”といってしまうと、現場の血や汗と遊離して、観念だけで、物事が先鋭的に把握されるおそれもあるのである。つまり、悪気はないのに“死の土地”という言葉が独り歩きし、結果として、福島の方々の微妙繊細な思いを踏みにじる結果を生じることも出てくる。

こう考えると、いろいろな思いを込めた象徴的・理想的な“FUKUSHIMA”は、確かに大事ではあるが、その先には、やはり、日々、そのとき、その場所で福島を精一杯生きるなま身の生活に思いをいたす実体的・現実的な“福島”に還相回向することが一番大事であると思う。

理想を求め“FUKUSHIMA”という大空に飛び立った飛行機は、いずれ、母なる大地“福島”へ帰還するのである。まかり間違っても宇宙へ飛び出したり、墜落してはなるまい。

“福島”即是“FUKUSHIMA”

“FUKUSHIMA”即是“福島”

獅子鷹

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