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2014年12月

ブラームス 悲劇的序曲Op.81、交響曲第3番ヘ長調Op.90

“四苦八苦”という言葉があります。この世は苦しみだらけ、という仏教の用語ですが、四苦とは“生老病死”の4つです。最大の苦しみは“死”ですが、“生”きることも“病”んだり“老”いたりしながら死に至るわけですからすべて“苦”というわけです(ちなみに、四苦八苦=4×9+8×9=108=大晦日の除夜の鐘で落とすべき煩悩の数)。話がまだらこしくなりましたが、ブラームスもこの四苦に苛まれつつ、時には翻弄され、時には払拭しかけたがやっぱりダメだったり・・、と見事なほどに自身の人生に真摯に向き合いながら、噛めば噛むほど味が出る珠玉の作品群を後世のわれわれに残してくれました。

 

今回の悲劇的序曲と交響曲第3番も、そんな味わい深い大傑作です。

 

この2曲は、1880から1883年にかけてという、ブラームスの音楽人生の最充実期に書かれましたが、彼の内面における、ある重大な共通点が見て取れます。それは、それぞれ1人の女性が登場し、愛という“生”における最も情熱的で切ない“苦”が盛り込まれていることと、この“苦”を充実した音楽で克服していることではないでしょうか。

 

まず、悲劇的序曲についてみてみましょう。

18809月の出版社宛ての手紙で、ブラームスは楽しい大学祝典序曲にふれたのち、「この機会に私の孤独な気持に対して悲劇的序曲を書くことを誓わざるをえなかった」と記しています。同時期に書かれた楽しい方の「大学祝典序曲」と苦しい方の「悲劇的序曲」の相補性は有名な話ですが、それはともかく、なぜ「孤独な気持に対して~」この曲を書いたのでしょうか。

この謎を解くカギが1つあります。ブラームスはスケッチを残すのが大きらいで、今は殆ど捨てられて残っていないのですが、悲劇的序曲のスケッチだけはなぜか奇跡的に残っていたのです(ウイーン楽友会所蔵)。このスケッチ帳は、作曲の10年以上前のもので、「アルト・ラプソディ」や「愛の歌」とともにこの悲劇的序曲の64小節の断片が記されていました。「アルト・ラプソディ」「愛の歌」は、密かに愛したクララ・シューマンの娘ユーリエが他の男性と結婚することになった際(1869年)、万感の思いを持って書かれました(しかも、ユーリエは結婚後、“病”いに倒れ、若くして“死”んでしまいます)。つまり、このスケッチ帳全体がユーリエへの愛の告白帳とも言え、ユーリエへの痛切な愛とそれを成就できなかった“苦”が前述の「孤独な気持」として10年以上ブラームスの心情に燻り続けた末、あのスケッチ帳から再び燃え上って悲劇的序曲として表出したといえないでしょうか。そう考えると、こてこての絶対音楽信奉者で、標題音楽の大嫌いなブラームスが敢えて“悲劇的”という標題を与えざるをえなかった恋という“苦”の深さが理解できると思います。

曲は、ニ短調で始まる自由なソナタ形式で、展開部を兼ねる再現部では、主題が柔和なホルンのニ長調となって薄日が差すが、やはり短調となり、最後はニ短調で苦を激しく吐露して終わる。しかし、曲を通じた決然とした激しい勢いは、この苦を凌駕するような力強さを感じさせるものになっているのです。

初演は18801226日、ウィーン楽友協会大ホールにてハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。

 

次に、交響曲第3番をみてみましょう。

今度登場するのはこの曲を作曲した1883年、ブラームス50歳の時に出会ったヘルミーネ・シュピースというアルト歌手です。ブラームスは歌唱力と女性としての魅力に惹かれ、彼女もブラームスが滞在していたヴィースバーデンまで訪れ、ブラームスも結婚相手として意識しますが、結婚にまでは踏み切れませんでした。 彼の友人の日記によればブラームスは53歳の頃に、「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころは地位が無く、いまでは遅すぎる。」と語り、23歳も年下のシュピースとは結婚は考えられなかったようです。結局、儚い恋に終わったわけですが、恋の甘美さや成就しない苦しさ、儚さといった情緒は、交響曲第3番の随所にブラームスらしからぬ?歌曲のような美しくも切ないメロディとなって表れているようです(特に第3楽章)。

さて、交響曲第3番です。先述の四苦にあてはめると、交響曲第1番は“生”の苦の面を表現したとすれば、交響曲第2番は真逆の“生”の楽の面を表し、交響曲第4番は“老”と“死”を表現しているといえます。では、この曲は何を表現しているのでしょうか。

この曲をさまざまな角度から分析すると、あらゆる相反する矛盾が内包されていることに気付きます。たとえば、ヘ長調の曲なので、第一楽章の冒頭F-A-F(ブラームスのモットーであるFrei aber froh=自由だがしかし楽しく)を使うべきなのに、F-A-Fとへ短調を配したり、第4楽章はヘ短調で始め最後だけようやくヘ長調で終わっています。また、全体的に、雄大で力強い男性的な響きがあるのに、それぞれの楽章の終わりはpで静かで、いわば女性的です。あるいは、北方ハンブルク的な重厚かつ暗くどんよりした曲想と南国イタリア的な、旋律を大きく歌わせるようなメロディ(例、第4楽章第2主題)の組み合わせ然り..

 また、各楽章をみると、第1楽章は激しく吠えて“生”の苦の面が垣間見え、対して第2楽章は柔和に歌う“生”の楽の面で、この2つで相矛盾する関係に見えます。しかし、第3楽章は、一転、恋の甘美さと成就できない苦しさが吐露され、これを第4楽章で闘争的に克服し最後は、へ長調となって、すべてを赦すかのように静かに終結します。結論的に、前述のあらゆる矛盾を抱えながら、最終的にすべての“生”における恋をはじめとした“苦”を超越して、諦観的な“楽”に超出しているといえます。つまり、交響曲第3番は、“生”における矛盾する“苦楽”をもろともに超越し、次元の高い寂静の“楽”の境地に到達したといえましょう。演奏するオケにとっては、pでしかも“悟りの境地”で終わるのは至難の業ですが、実力の差が出るといえましょう。そして、精一杯こころに染み渡るpを表現できたとき初めて、交響曲第4番の“老”と“死”を真の意味で理解できるのだと思います。

 なお、初演は1883122日、ハンス・リヒターの指揮により、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会。結果は大成功で、ブラームスは再三カーテンコールを受けました。

                                         獅子鷹

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