ブラームス 悲劇的序曲Op.81、交響曲第3番ヘ長調Op.90
“四苦八苦”という言葉があります。この世は苦しみだらけ、という仏教の用語ですが、四苦とは“生老病死”の4つです。最大の苦しみは“死”ですが、“生”きることも“病”んだり“老”いたりしながら死に至るわけですからすべて“苦”というわけです(ちなみに、四苦八苦=4×9+8×9=108=大晦日の除夜の鐘で落とすべき煩悩の数)。話がまだらこしくなりましたが、ブラームスもこの四苦に苛まれつつ、時には翻弄され、時には払拭しかけたがやっぱりダメだったり・・、と見事なほどに自身の人生に真摯に向き合いながら、噛めば噛むほど味が出る珠玉の作品群を後世のわれわれに残してくれました。
今回の悲劇的序曲と交響曲第3番も、そんな味わい深い大傑作です。
この2曲は、1880から1883年にかけてという、ブラームスの音楽人生の最充実期に書かれましたが、彼の内面における、ある重大な共通点が見て取れます。それは、それぞれ1人の女性が登場し、愛という“生”における最も情熱的で切ない“苦”が盛り込まれていることと、この“苦”を充実した音楽で克服していることではないでしょうか。
まず、悲劇的序曲についてみてみましょう。
1880年9月の出版社宛ての手紙で、ブラームスは楽しい大学祝典序曲にふれたのち、「この機会に私の孤独な気持に対して悲劇的序曲を書くことを誓わざるをえなかった」と記しています。同時期に書かれた楽しい方の「大学祝典序曲」と苦しい方の「悲劇的序曲」の相補性は有名な話ですが、それはともかく、なぜ「孤独な気持に対して~」この曲を書いたのでしょうか。
この謎を解くカギが1つあります。ブラームスはスケッチを残すのが大きらいで、今は殆ど捨てられて残っていないのですが、悲劇的序曲のスケッチだけはなぜか奇跡的に残っていたのです(ウイーン楽友協会所蔵)。このスケッチ帳は、作曲の10年以上前のもので、「アルト・ラプソディ」や「愛の歌」とともにこの悲劇的序曲の64小節の断片が記されていました。「アルト・ラプソディ」「愛の歌」は、密かに愛したクララ・シューマンの娘ユーリエが他の男性と結婚することになった際(1869年)、万感の思いを持って書かれました(しかも、ユーリエは結婚後、“病”いに倒れ、若くして“死”んでしまいます)。つまり、このスケッチ帳全体がユーリエへの愛の告白帳とも言え、ユーリエへの痛切な愛とそれを成就できなかった“苦”が前述の「孤独な気持」として10年以上ブラームスの心情に燻り続けた末、あのスケッチ帳から再び燃え上って悲劇的序曲として表出したといえないでしょうか。そう考えると、こてこての絶対音楽信奉者で、標題音楽の大嫌いなブラームスが敢えて“悲劇的”という標題を与えざるをえなかった恋という“苦”の深さが理解できると思います。
曲は、ニ短調で始まる自由なソナタ形式で、展開部を兼ねる再現部では、主題が柔和なホルンのニ長調となって薄日が差すが、やはり短調となり、最後はニ短調で苦を激しく吐露して終わる。しかし、曲を通じた決然とした激しい勢いは、この苦を凌駕するような力強さを感じさせるものになっているのです。
初演は1880年12月26日、ウィーン楽友協会大ホールにてハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。
次に、交響曲第3番をみてみましょう。
今度登場するのはこの曲を作曲した1883年、ブラームス50歳の時に出会ったヘルミーネ・シュピースというアルト歌手です。ブラームスは歌唱力と女性としての魅力に惹かれ、彼女もブラームスが滞在していたヴィースバーデンまで訪れ、ブラームスも結婚相手として意識しますが、結婚にまでは踏み切れませんでした。 彼の友人の日記によればブラームスは53歳の頃に、「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころは地位が無く、いまでは遅すぎる。」と語り、23歳も年下のシュピースとは結婚は考えられなかったようです。結局、儚い恋に終わったわけですが、恋の甘美さや成就しない苦しさ、儚さといった情緒は、交響曲第3番の随所にブラームスらしからぬ?歌曲のような美しくも切ないメロディとなって表れているようです(特に第3楽章)。
さて、交響曲第3番です。先述の四苦にあてはめると、交響曲第1番は“生”の苦の面を表現したとすれば、交響曲第2番は真逆の“生”の楽の面を表し、交響曲第4番は“老”と“死”を表現しているといえます。では、この曲は何を表現しているのでしょうか。
この曲をさまざまな角度から分析すると、あらゆる相反する矛盾が内包されていることに気付きます。たとえば、ヘ長調の曲なので、第一楽章の冒頭F-A-F(ブラームスのモットーであるFrei aber froh=自由だがしかし楽しく)を使うべきなのに、F-As-Fとへ短調を配したり、第4楽章はヘ短調で始め最後だけようやくヘ長調で終わっています。また、全体的に、雄大で力強い男性的な響きがあるのに、それぞれの楽章の終わりはpで静かで、いわば女性的です。あるいは、北方ハンブルク的な重厚かつ暗くどんよりした曲想と南国イタリア的な、旋律を大きく歌わせるようなメロディ(例、第4楽章第2主題)の組み合わせ然り..。
また、各楽章をみると、第1楽章は激しく吠えて“生”の苦の面が垣間見え、対して第2楽章は柔和に歌う“生”の楽の面で、この2つで相矛盾する関係に見えます。しかし、第3楽章は、一転、恋の甘美さと成就できない苦しさが吐露され、これを第4楽章で闘争的に克服し最後は、へ長調となって、すべてを赦すかのように静かに終結します。結論的に、前述のあらゆる矛盾を抱えながら、最終的にすべての“生”における恋をはじめとした“苦”を超越して、諦観的な“楽”に超出しているといえます。つまり、交響曲第3番は、“生”における矛盾する“苦楽”をもろともに超越し、次元の高い寂静の“楽”の境地に到達したといえましょう。演奏するオケにとっては、pでしかも“悟りの境地”で終わるのは至難の業ですが、実力の差が出るといえましょう。そして、精一杯こころに染み渡るpを表現できたとき初めて、交響曲第4番の“老”と“死”を真の意味で理解できるのだと思います。
なお、初演は1883年12月2日、ハンス・リヒターの指揮により、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会。結果は大成功で、ブラームスは再三カーテンコールを受けました。
獅子鷹
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真善美の探究【真善美育維】
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
投稿: 雷鳥 | 2015年1月 8日 (木) 11時40分