心と体

ワーグナー 歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲

 ワーグナーはドイツ・ロマン派の巨星で、いわゆる“未来の総合芸術”という一種のユートピア的芸術形態を目指し、個々の芸術要素(音楽、文学、舞踊・・)はドラマ(=楽劇)という総合形態に統合されるべきとしてその実現に奔走した希代の音楽家です。要するに、まず、従来の歌劇は堕落した、器楽音楽はベートーヴェンの第9をもって使命を全うした、個々の交響曲は無価値だと否定し去ります。そして、すべての芸術は、“ドラマ”という目的に奉仕すべきだというのです。これは、大作「ニーベルングの指環」4部作の理論的根拠にもなり、同時代以降の音楽芸術に甚大な影響を与えました。(ドヴォルザークも ブラームスに会うまでは熱烈なワグネリアンで、プラハで上演されるワーグナー物は欠かさず観賞しています)

 とはいえ、この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、肩の力が抜けたというか、例外的にワーグナーほとんど唯一の大衆的な喜歌劇の部類に入るものです。初稿は、タンホイザー初演の1845年、完成は「指環」や「トリスタンとイゾルデ」などをはさみ約20年後の1867年。1868621日、ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場でハンス・フォン・ビューローの指揮により初演されました。

 今回採り上げる第一幕への前奏曲は、劇中の主要動機が明確なかたちで要約されており、この歌劇全体の戯曲的構成が見事に織り成されています。

獅子鷹

 

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フィンランディアの普遍性とは

フィンランディアは交響曲第二番とならんで、シベリウスの代表作である。いうまでもなく、19世紀末以来の帝政ロシアの圧政からの独立を象徴するフィンランドの国民的楽曲であると同時に、独立後のスターリンなどによるソ連の露骨な圧迫時にもフィンランドの心の拠り所となってきた曲である。しかも、今日ではフィンランドはもとより、欧米、日本を始め世界で人気を得ており、当のロシアでさえ演奏されているのである。

私は中学生のときに初めてこの曲を聴いたが、なにやら底知れぬ怖さに圧倒され、中間部の旋律の美しさに圧倒され、最後の盛り上がりに圧倒されたことを覚えている。もちろん、作曲経緯や曲想の理解など知る由もない時分である。

それ以降、この曲がなんだか自分の一部であるような感覚がどこかにあり、演奏したり聴いたりするたびに不思議な感覚に襲われるのである。好きとか嫌いという感情を超えているのだ。これは一体何なのか。。演奏機会もなんだか私にいやにまとわりついている。最初は、中3のとき、ブラスバンドのコンクールの自由曲で。次は、大学に入学したての4月の大学オケ演奏会でいきなり前プロとしてホルンの1stを吹かされたとき。最近は所属オケの定演でのシベ2直後のアンコールで、等々。

この一見民族固有の曲が、世界的に愛される理由、また自分の一部であるかのように感じられる理由は何なのか。その答えが、昨日のNHK「アマデウス」シリーズのフィンランディアをヒントに一応得られた。

最大のヒントは他ならぬシベリウスの言ったといわれる以下の言葉である。

「作曲にピアノは要らない。静けさと自然があればいい」

武満徹も「作曲とは曲を作り出すのではなく、自然に存在する音をそのまま紡ぎだすだけだ」という趣旨のことをいっているが、これでピンときたのだ。

「アマデウス」での分析の概要は以下の通りである(一部私の追加・解釈補正あり)。

①アンダンテ・ソステヌート(嬰ハ短調):金管の主旋律でフィンランドの人々の「絶望」を表す。これを木管の「森」→弦の「大地」で受ける。

②アレグロ・モデラート:トランペットの弱起のファンファーレで「闘争」が始まる。

③アレグロ(変イ長調):闘争に打ち勝ち、「勝利」に向かう。

④中間部:コラール(フィンランド讃歌)

⑤再現部:③が発展的に再現され、圧倒的に幕を閉じる。

まさに、「絶望」→「闘争」→「勝利」と絵に描いたような筋書きである。ここまではいい。

次に、シベリウス自身が重きを置いた「自然」に着目した、普遍性の解釈を試みる。つまり、「フィンランドの」という限定を外した、内なる自然「こころ」のプロセスに置換してみたい。

①金管の主旋律で人々の根源的な「悪・苦」を表す。これを木管の「森」→弦の「大地」で受ける。つまり、序奏の短調のモチーフは、外なる自然である「森」や「大地」、内なる自然である「こころ」の実相を表象しているのだ。自然は内も外も穏やかとは限らない。思い通りにならないものなのだ。つまり、「悪」を抱え込んでいる。人には生きる限り「苦」はついて回るものなのだ。

②でも、やはり「悪・苦」はいやだ。トランペットの弱起のファンファーレで自己内の「悪・苦」との「闘争」が始まる。トランペットが「悪・苦」とたたかう己とすれば、これを否定する序奏の短調のモチーフや「シンコペーション」のモチーフ(悪の自然)が立ちはだかる。このせめぎ合いの果てに、

③5拍子相当のティンパニが静かに立ち上がり、力強く盛り上がって「悪・苦」に対する「勝利」の勝ち鬨を上げる。弱起5拍子というまだ不確かな歩みから確信の4拍子に向かうのである。しかし、繰り返し前のホルンの「シンコペーション」のモチーフでまだ「悪・苦」が不気味に遠吠えをするが、すぐさまトランペットのファンファーレで打ち消し、大きな長調の山を作って「悪・苦」を克服する。

④これまでに自然の根源的な「悪・苦」を克服したが、ここで、善悪とか苦楽とか闘争・克服といった2元的な対立を超えた境地に達する。木管による、序奏の短調のモチーフから転じた美しいメロディ(整えられた内なる自然・すなわち心である)は、さざなみのような弦のささやき(整えられた外の自然・大地である)に包まれて天上の歌を歌うのである(フィンランド讃歌)

⑤この境地に達すれば、ふとわれに返れば、現実は言祝ぐべきものとなる。すなわち、ベート-ベン同様「歓喜の歌」で終わることになる。この段階で以前執拗に立ちはだかった「シンコペーション」のモチーフから悪は消え去り、序奏の短調のモチーフから長調に転じたフィンランド讃歌の大合唱を支える、大地のモチーフへと再生して終わる。

こうして、フィンランディアは、ベートーベン第9と同様、こころの様相の弁証法的プロセスを見事に内包しているため、普遍性を得たといえると思う。

どおりで、自分の心の一部のような気がしたわけだなあ。もっとも、「私のフィンランディア」の終わりは遠い。。

獅子鷹

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呼吸はこころである

人は生まれて死ぬまで「呼吸」のお世話になる。おぎゃーと声を発する前に人生最初の「息」を吸い、「この人生は有意義な(あるいは無意味な?)人生であった」と呟き人生最後の息を吐いてこの世を去る。この間、人は休むことなく呼吸を繰り返す。感情の乱れから過吸状態になり、無意識にため息が出てしまう。こころを落ち着けるために、努めて深呼吸をする。。無意識・意識に関わらず、呼吸は私たちの生活にぴったり寄り添っており、こころそのものといっていい(実際、「息」は「自」らの「心」と読める)。

息は「呼」と「吸」の繰り返しからなる。

これを振り子の運動に喩えてみる。振り子が周期運動をするためには、錘を真下から斜め上に引き上げる必要がある。この行為が人生最初の「吸」である。息をいっぱいに吸うと次の瞬間息を吐く「呼」に転ずる。この転換点が振り子運動の「端」である。この端では錘は運動自体を一瞬静止する(エネルギー保存則では位置エネルギー最大、運動エネルギーゼロ)。人でいうと絶景を見たときに思わず息を呑んで目に焼き付ける行為というのだろうか(ニーチェのパースペクティズム(=一瞬の眺望をあたかも永遠の存在と錯覚すること)の現前ともいえる)。とにかく「生」をもっとも鮮やかに感じる瞬間であろう。

次に息を「呼」に転じると、息をハーッと吐き、やがて苦しくなって、息を「吸」に転ずる瞬間がやってくる。振り子の錘が「端」からやおら真下を目指して動き出し、いよいよ加速度を増して真下を一瞬にして最大速度で通過したその瞬間のことである。この時点で位置エネルギーはゼロ、運動エネルギーは最大。人でいうと息を吐ききり、もう吐けない、苦しい、死んでしまう、すべてがぐるぐる回り、思考するどころでなくなる状態。つまり「死」にもっとも近づく瞬間ではないか。

この死にふれた瞬間錘は、振り子の反対側に飛び出して「吸」が復活するのである。そしてまた反対の端まで振れ、また戻る。これの繰り返し。そして空気の摩擦などにより、だんだん振り幅が縮まり、やがて静止する(本当の死を迎える)。

ふつうはなんとなく呼吸をしているが、実は、一呼一吸の度に「生死」を繰り返していることに気づくといろいろなことがわかってくる。

たとえば、自殺を考える。死にたいと思って死ぬ人は(殉教者を除いて)まずいまい。だれでも生きたいのだ。こんなに生きたいのに世の中が思い通りにならない。「生きたい」といってこころが発散しきったまま自らの命を絶つ。。つまり、振り子が端に行ったときに自らの錘をつなぐ糸を切ってしまうのである。錘の運命はいかばかりか。。死後、錘(自分)はどこへいってしまうのか。生と死が離ればなれとなり、股裂きに遭ったような死。こんな悲劇はないと思う。

また、溺死は一番残酷な死に方といわれる(経験談がないので断定は避ける)。やはり、生きたい(酸素を吸いたい)のにかなわずに、生の端に向かう途上で死なざるを得ないからではないのか。。

仏教や東洋医学では呼吸の「呼」を重んじる。「呼」を大切にせよ。「吸」は自然にまかせよ、と。つまり、「呼」を大切にして、息を吐ききっていったん死にきれ。すると、死の底から自然と復活し、我の消失した覚の境地であたらしい生が自然と他力的に現前するというのである。キリストは十字架で磔死後、神の子イエスとして復活した。彼は身を以って呼吸の大切さを示したとさえいえるのだ。瞬間瞬間の呼吸でこの境地を体得できれば、なんと楽しいことか。

私はフレンチホルンを吹いているが、演奏自体が呼吸そのものである。音をだす間は「呼」つまり死に向かう聖なる瞬間なのだ。「吸」はそのための準備である。そもそも「呼」という字は声や音を立てる(呼ぶ)という意味であるから、弦楽器であれ管楽器であれ打楽器であれ声楽であれ、あらゆる演奏は死に触れる聖なる行為といえる。音楽は理屈抜きにリアルに触れる行為なのである。だから、やめられない。。

ちなみに、呼吸は意識していないときは本能的な身体のもの、意識的に統御するときはこころのものである。つまり、こころと身体を絶対矛盾的に統合する「魂」のものである。

呼吸を制する者、魂/こころを制する。すなわち、自らを律することができるのである。

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その6~判断系非意識~

最後は、「行:判断系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、前段階で「想:表象系」が大活躍して(コンピュータではプログラムを実行して)いますが、その演算結果を確定させる段階です。Photo_2

ここで、判断系の非意識として、「布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の概念を提示したいと思います。まず、判断系非意識布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の入出力関係を整理しておきます。

                       リアル(環境、自分)【色:表現系、識:記憶系】

                           ↑      ↑      ↑

戒     →定     →智慧    布施/愛→共感/慈悲→真理表現【判断系非意識】

↓↑     ↓↑         ↓↑       ↑      ↑      ↑ 

体験/想像→思考/意味→分析/理解 → 感情表現→価値判断→概念/原理化【判断系意識】 


(1)布施/愛について                                                    

布施/愛は、何の感情も伴わない純粋な贈与の判断です。入力は、表象系非意識の戒と、判断系意識の「感情表現」です。前者は、直感→戒→布施/愛と流れる極めて自然なリアル/無意識と一体となったプロセスですね。後者が曲者です。通常われわれは知覚→体験/想像→感情表現というように、原初の対象をはなれ、美醜・好悪・喜怒哀楽をはじめとするあらゆる感情表現に発散させます。ここに人生を見出します。しかし、真実はリアルに近い布施/愛に気づくのが自然なのですね。感情表現に執着するから、自然に反して苦しいのです。そして感情表現(を滅し)→布施/愛リアルと環境や他人に対しては「表現」し、自己に対しては「記憶」し、よいカルマとして次のリアルとの「触」に備えるというわけです。


(2)共感/慈悲について

共感/慈悲は、布施/愛と親和する概念ですが、一つの違いは、の裏づけがある点です。こころを落ち着け、浄化されると、打算や善悪などの価値判断を超えた「無願」の判断が泉のように湧き出してきます。これが共感/慈悲です。また、「察する」の意識世界では、認知→思考/意味化(認識)→価値判断というように、原初の対象を後得の理知で「それは何の役にたつのか」「価値はあるのか」「良否は」と現世の利を求めて苦しんでいます。そこで、そういう思考判断を手放して、対象であるリアル大悲を注ごうというのが、価値判断(を滅し)→共感/慈悲リアルの流れなのです。


(3)真理表現について

真理表現は、大悲→大智という般若の智慧である「真理」の判断という意味です。判断系意識である「概念化/原理化」はあくまで現象世界における分別を原理・原則化したものですが(「真偽は」と問う)、この真理リアル/無意識(潜在性)をも含んだ「一切」を包含する真理なのですね。ですから、概念化/原理化(これは分析世界の部分的真理に過ぎないことを観じてこれを滅し)→真理表現リアルと至る流れが自然の流れといえます。

これで、非意識系についてのお話は終わります。(つづく)


獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その5~表象系非意識~

さて、いよいよ「想:表象系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」後、「受」:知覚系(INPUT)が生起し、知覚系非意識(直感→洞察→直観)を介して知覚系意識(知覚→認知→分類)が表面化します。これは、いわば、リアルとの接触をこころが了解した段階です。コンピュータでは、データをメモリに格納した段階になります。

次に、いよいよこころのメタプロセスのメインイベントである、「想」:表象系(データを読み出してプログラムを実行する段階にあたります)になります。Photo_2      

  ここで、表象系の非意識として、「戒→定→智慧」の概念を提示したいと思います。戒・定・慧といえば、「三学」といって仏教における「覚りへの道」そのものですね。まず、表象系非意識戒→定→智慧」の入出力関係を整理しておきます。                                                     

リアル(環境、自分)【色:現象系、識:想起系】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【受:知覚系非意識】 → 戒   →定     →智慧【想:表象系非意識】

↓   ↓   ↓                ↓↑    ↓↑     ↓↑

知覚→認知→分類【受:知覚系意識】 →体験/想像→思考/意味→分析/理解【想:表象系意識】                  

(1)戒について

「感ずる」に対応する表象系非意識を、いきなりという概念で提示しました。何かピンときませんね。入力関係を見ますと、表象系意識の「体験/想像」と相互に入出力関係あり、と定義しています。ここは、表象系意識の側から見てみます。

表象系意識「体験/想像」とは、「知覚」した対象を具体的にイメージする段階です。いわば、原初的な「幻想」が発生するわけです。この「幻想」に基づき、いろんな感情(美醜、喜怒哀楽・・)が発生し、いわゆる四苦八苦につながっていくわけです。ですから、「苦につながることはするな」ということになってきます。これを意識側の「体験/想像」からみれば、「苦につながるような体験/想像を慎め」であり、これを習慣化すれば、無意識側に追い込むことができ、これが表象系非意識として実践されることになります。戒が非意識的に板についてくると、逆に意識側の「体験/想像」も整えられてくるという相乗的入出力関係が成立します。

リアル(環境・自分)という「意識の生滅のおおもと」は、まったく、意識の思い通りになりません。穏やかな日もあれば、大地震の日もあります。よい出会いもあれば、悪い出会いもあります。天使の自分もあれば、よこしまな自分もあります。意識で制御はできないのです。できることは、これらの「体験/想像」から必然的に生ずる「苦」を極力減らすように「の習慣化」をするのみのようです。

は同じ非意識の中で、直感が入力となります。直感リアルとの原初的出会いです。リアルと想像界の最初の接触面である直感では、主客の別もなければ、概念も意味も発生しません。もっとも純粋な「リアル感受」といってもいいと思います。両義性のこの接触面を想像界側(意識側)から見ると、一でもあり多様体でもあるリアルを意識側が勝手に分節し三次元化し、さんざ悪さをしますので、リアルと一体の直感から非意識のまま上記のようなへ移行するのが自然ななりゆきではないでしょうか。

(2)定について

については、入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 定 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)洞察 → 定 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)思考/意味化 ⇔ 定 (表象系意識との相互入出力関係)

i)の習慣化(諸悪莫作 衆善奉行)によりリアルからの入力のブレがなくなってくると、自然とこころの様相は浄化され、「禅」の状態に入りやすくなります。これを意識の側から行うのが、iii)の思考/意味化からのアプローチです。すなわち、「察する」における表象とは、イメージと概念(記号・言語による)の交差点たる「思考・思量」ですが、この意識の王様たる「思考・思量」を手放すというアプローチが「非思量」でありの意識状態です。逆に、をつかむと、「思考・思量」が頭の中を通過しても、落ち着いてやりすごせるという安楽な世界が出現します(いわゆる、「自浄其意」の実現といってもいいでしょう)。また、ii)の洞察ですが、文字通り、洞は空と同じですから、何も介せずにリアルを直接「察する」という意味になります。この直接「察した」ものをそのまま、は表象する、すなわち、何も「思量せず」に受け入れるということになります。

(3)智慧について

最後は智慧です。入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 智慧 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)直観 → 智慧 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)分析/理解 ⇔ 智慧 (表象系意識との相互入出力関係)

i)はいうまでもなく、「禅」→般若の「智慧」の関係ですね。戒→定→慧という仏道の王道を智慧という「理」で表象します。ii)直観は、リアルを理屈抜きに直接把握することをさします(これが意識化すると、なんらかの「分類」にしたがって、名前付けがなされたりします)。直観がすなわち、純粋な思念の彼岸たる智慧へもたらされます。また、iii)は分析/理解という意識側からのアプローチです。「分析/理解」というのは、「思考」とならんで、人間脳の癒しがたい代表的意識形態ですね。「分かった」というのが、この意識の最大の誤謬です。なにせ、ある対象をいくつかに「分けて」これをあわせれば「一切」といって全部「分かった」と「理解」しているのですから。なにも、「分ける」必要はありません。リアルはもともと1つの「空」の世界。文字通り「分けられない=分からない」世界が実相なのです。このリアルを直接表象する智慧に気づきなさい、といっているのですね。これは、世間や意識の分別的知恵でなく、無分別的般若の智慧ということです。逆に、智慧をつかむと、本質を外さない「分析/理解」で深みがでてきます。なお、蛇足ながら、この文章のように理で智慧を表現しようとすると、ほんとうにまだらこしくなりますね。 

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その4~知覚系非意識~

Photo だいぶ間があいてしまい、失礼しました。さて、いよいよ、「悟り系」??について仮説を進めてみます。まずは、左図をよく見てください。前回の「無意識系」と「意識系」の中間に「非意識系」をピンクで挿入しています。左側のボロメオの輪のうち、無意識系Rと意識系(I(感) → I-S(察) →S(観))の重なり合う部位(R-I → R-I-S →S-R)が「非意識系」です。意識系がわれわれの心に立ち現れる(つまり、現象として分節化・差異化・非対称化される)以前の、「世界がいっしょくた」の差異のないいわば平等の世界、つまり、対称性を備える(現象前のこの段階で、現象後に分節化する対象はすべて同じ資格をもつという意味、すなわち入れ替え可能)というのが、この「非意識系」です。 

初回に、「つまり、最終的には意識世界①、②、③各々について、それ以前の世界があることを言いたい為なのですね。

これを、「感ずる」に対して「直感」  「考察する」に対して「洞察」
    「観ずる」に対して「直観」

というワードを充ててみたいと思っています。
いかにも意識の下で分別的に働いているように思われますが、実は、対象と一体化した上での心の働きだと考えています。
いわば、意識に対して非意識(あくまで無意識ではない) 」と書きました。

これを、上図の「非意識系」のマトリクスに入れてみました。

これは、以下の「こころのメタプロセス」(と名づけます)にあてはめますと、2.「受:知覚系」に対応しています。

【こころのメタプロセス】

1.「色:現象系」=外部データを入力する(自然界、他人に接する)
  「識:想起系」=内部データを読み出す(記憶、知識を想起する、生理欲が起こる)
2.「受:知覚系」=データをメモリに記憶する
3.「想:表象系」=プログラムに従って演算回路で演算を行う
4.「行:判断系」=演算の結果を確定する
5.「色:表現系」=外部へデータを出力する(身・口・意で外へ働きかけを行う)
  「識:記憶系」=内部記憶装置へデータを書き込む(経験知として記憶する)

つまりこころのメタプロセスにおいて、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」がまずあり、次にこころのうち「受」:知覚系(INPUT)が生起し、まず非意識系直感→洞察→直観の流れを介して意識系の知覚→認知→分類に表面化するわけです。(なお、カントは「純粋理性批判」でここでの「直感」に「直観」の文言を当てているようですが)

まとめると、

リアル(環境、自分)【色(現象系)、識(想起系)】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【非意識系の受(知覚系)】

↓   ↓   ↓

知覚→認知→分類【意識系の受(知覚系)】

という関係に整理できます。

では、「想」(表象系)と「行」(判断系)はどうなるのでしょうか(上図?の部分。)

(つづく)

獅子鷹

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誰でも仏になれる?

キリスト教やイスラム教(ユダヤもそう)世界で、「誰でも神になれる。もちろん僕も!」などと呟いたとたん、「お前、気が狂ったか」と言われるだろう。しかし、日本で、「誰でも仏になれる。もちろん僕も!」といっても、それほど違和感はない。同じ「宗教」を語っていても、この違いはどこから来るのだろうか。

この違いについて「対称性人類学」を実践されている中沢新一氏は、キリスト教は「信仰」。仏教は「信心」。と言及されている。なるほど言いえて妙である。

神とその受肉者たるイエスを「信仰」するのが、キリスト教。ここでは「主体」である「自己」が「客体」である「神」を絶対的に「仰ぎ見る」という構図が見えてくる。自己と神の間に超えがたい溝があるかのごとくである。

これに対して、仏教は「信心」。自らの心身を見つめ、魂を磨くうちに心のうちに仏を見出せる、すなわち「自ら仏になれる」というのである。自己と仏の間には何の障壁もない。それに気づけ!というのである。

なんだか、後者の方に親しみがわいてくるではないか。

先般、「西洋哲学の限界」について書いたが、「信仰」における「自己と神の間の超えがたい溝」ということが形而上(目に見えないもの、普遍的なもの)と形而下(現実)とを厳密に分けることと通底しているようである。それどころか、ニーチェの「神は死んだ」以来、自己が唯一のよりどころとなり、人間の精神(ヒューマニズム)が絶対化し、暴走した。。西欧人をみていると、自信たっぷりに「自己」を語る(主張する)。しかし、どことなく、心休まらないようにも見受けられるのだ。(ビルゲイツさんなど欧米の大富豪がときに莫大な寄付をするのも、この代償ではないだろうかと勘繰っている。)

一方「信心」とは、神仏を対象化して見ていない。目に見える理知・感性も、目にみえない神仏も同じ心にあると見ている。仏(性)がグラデーションのように魂を介して生滅する意識とつながっており、しかもこれら全体が真の意味での「心」ととらえているのである。たとえば弘法大師空海の「秘密曼荼羅十住心論」を紐解くと、仏を潜在性の度合いと捕らえ、まさに、だれでも「即身成仏」できる可能性を説いているのである。

日本は、明治以降「信仰」の文明面だけを欧米から輸入した。しかし、文化性や宗教性は歴史的に「信心」が染み付いているのだから、魂のところでねじれを生じているのではないだろうか。文化性の上に文明が築かれるのが自然であるから、「和魂洋才」といっても、根無し草も同然である。日本人が海外で堂々と主張できないのにはそれなりの理由があるようだ。

とはいえ、「和魂洋才」のような奇妙な文明形態も広い意味では「信心」に吸収されうると思う。「信心」は「信仰」を包含しているからである。来るべき「超宗教」はその先にあると思う。

獅子鷹

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西洋哲学の限界とは?

新年早々恐縮ですが、私は、西洋的な「哲学」というものになじめません。どこか、限界をかかえているように思います。限界まではあらゆる分析・思考を駆使して、問い詰めるわけですが、いよいよ到達できないとなると、「語りえぬものには沈黙するしかない」(ウィトゲンシュタイン)。まあ、ブッダも哲学を語るときは「無記」というのですけれど。。

まあ、理知で世の中のあらゆる原理原則を導き出そうと苦悶することは、世の中を理解するために必要だと思いますが、どうしても理解を超えたり、認識不可能な事態が世の中には多いわけで、こういう事態を哲学の対象にしたとたんに、「形而上学」なるものに祭り上げられ、白い目でみられるというわけです。

たとえば「存在」をどう認識するかなんかがそうです。純粋思弁という「内部」にしかないような形式でいかに「存在」などの「外部」を認識をするかなどという問題の立て方をして、アポリア(解決困難な問題)を作り出すわけです。勝手に内部と外部をカテゴリー分けするからこうなるのではないでしょうか。(だから、哲学は口を折らざるを得ない!?)

獅子鷹

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宗教って何?

ある雑誌に、町田宗鳳氏と鎌田東二氏の対談が載っていた。読み進めると、「宗教をどう説明するか」というくだりで両氏が概略次のように述べられていた。

町田「二つの円を描いて、それぞれ心と身体を表す。宗教とは二円の重なった部分。この重なりの部分が大きいほど生きていて楽しいし、「ありがとう」という気持ちも湧いて来る。・・現代人はこの二円が離ればなれになっている。・・」

鎌田「心はウソをつくけど、体はウソをつかない。それと魂の関係を考えるのが宗教的レベルの話。・・ウソをつかない身体と、ウソをつけない魂がどうやって調和のある関係をつくっていくのかというのが一つの修行である。人間の心と身体と魂の関係をクリアにして、できるだけありのままの状態、ウソをつかない状態に近づけていくことが大事。」

ふたりの会話を統合して解釈すると、こうなる。

「宗教とは、優れて人の心身をどう捉えるかにつきる。心身は切り離すことができない。

①身体               =ウソをつかない

②魂(①と③の重なり合う部分)=ウソをつけない!

③心                =ウソをつく

心ができるだけウソをつかないように②の領域を大きくしつつ、①との調和をつくっていく(修行などを通じて)のが宗教のありかたである。」

とこんなところであろうか。なかなか示唆的な会話であると思う。

確かに、③心はウソをつく(人の為すことはすべて「偽」)。これに対して、①身体は正直である。寒いときは寒い。痛いときは痛い。必ず土に還る。まったく、ウソつきの心の思い通りになったためしがない。

では、②魂が「ウソをつけない」というのはどういうことだろうか。魂は身体と心の重なった部分であるから、心身の橋渡しをするとともに、心身の絶対矛盾(ウソをつかない/つく)を背負い込む微妙な役割を負うことになる。

魂が弱ければ(①と③の重なりが小さい、またはゼロ)、心は、自由を履き違えて「ウソをつけない」魂を誑かして悪魔のようにウソをつきまくる。すると、小心者の魂はウソを強いられ、本来のウソをつけない性に反するため、ますます弱ってしまう。

逆に魂が強ければ(①と③の重なりが大きければ)、ウソをつかない①身体とタッグを組んでウソつき性の心を極力おさえることができる(これを「自浄其意」という)ということか。

どうやら、「魂を強くし、かつ、身体に親しみ、心を平静に保つよう努力する」ことが、宗教の要諦であるようだ。

獅子鷹

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龍安寺の石庭の意味とは?(その4)

「大海原」=「無機物=物質」

「15の石」=「有機物=生命体」

と構造化できないだろうか。ということだった。

これまで出てきた事項を簡単にまとめてみよう。

①「大海原」=「無機物=物質」   ⇔ 「さとり」「空」「存在」

      ↑                 ↑

        【相対立/矛盾する関係】

      ↓                 ↓

②「15の石」=「有機物=生命体」 ⇔ 「まよい」「煩悩」

②が、人間が通常おかれている事態である。なんの変哲もない。ところが、「人間とは何か」「存在とはなにか」「生きる意味は」と問い始めた人は、うまくいくと①の世界に到達する。すると、物質である脳・からだのはたらきとして生命現象/こころが、存在のただなかかからまよえる「存在者」が、矛盾を孕みながら現出してくることが分かってくる。②は①という実相があって初めて、現象できる「はたらき」なのである。ここまで納得できれば、あとは一直線。

「空即是色」である。

大手を振って、この娑婆世界を「主人公」として闊歩できるというものである。①の世界を体得したのであるから、堂々と②へ戻ってくればよい。この宇宙、銀河系内にあって生きていること自体がまさに「神秘」であり「奇跡」であることを石は語りかけているのである。怒涛の波、足許のコケの解体力に抗い、健気に生きたいものである。

「龍安寺の庭石が新しくなった。全面的に入れ替わったわけではない。きれいに洗われ、石の表面がはっきりとみえるようになった。洗ったのは、石が崩れはじめており、それを補修するためであった。思えば不思議なことだ。長い間、白砂に配された15石は同じように薄黒く、だれもが石一つひとつの表情など問うものはなかった。・・」(小学館ウイークリーブック 日本庭園をゆく 2 より)

いけない、いけない。石はエントロピー増大の法則にしたがい、崩れてしまう。石は同じように薄黒くなり、足もとの海原へ還元されてしまうではないか。日々石(自分の命)を磨こう。さとりの世界にとどまっていてはいけない。もうすべての真実が明らかになったのだ。なにも迷うことはない。命のかぎり、生命力を躍動させよう。進んで迷おう。

「水月の道場に坐し(色即是空)、空華の万行を修す(空即是色)」

人生に意味がないなど、断じて、ない。

獅子鷹

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