ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ
本日は「ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ~」と題してロマン派音楽の「名所」を巡っていきたいと思います。前半は「北イタリアから音楽の都ウイーンへ」という西洋音楽のメイン・ストリートを歩いてみたいと思います。後半は、どちらかというと西欧主流派に抑圧されていた東欧やロシアの、民族主義が発露した後期ロマン派音楽に焦点を当てます。
【1️⃣自由な表現を求めて ~前期ロマン派の勃興~】
歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲/ロッシーニ(1792~1868 イタリア)
ロマン派とはどんな意味なのでしょうか?皆さんご存知ですか?いろいろな解釈がありますが、一言でいうと、「人間の自由な表現を重んずること」といっていいと思います。よく対比されるのが、「古典派」音楽ですが、こちらは和声や対位法による規律、厳格な表現形式といったイメージですが、ロマン派は、規律に対して「自由」、表現形式に対して「表現内容」といったところでしょうか。
ところで音楽におけるロマン派の幕開けといえば、19世紀初頭のウエーバーかシューベルトあたりになりますが、本日は、彼らと同時期に活躍した北イタリア生まれロッシーニの歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲から開始します。先ほどロマン派の特徴は「表現内容」といいましたが、歌劇はまさにストーリーのある「内容」そのものですね。「セヴィリアの理髪師」序曲は、歌劇の序曲の草分けでもあり、またもっともポピュラーな器楽曲でもあり、ロマン派の旅のトップバッターにうってつけといえましょう。
交響曲第7番 イ長調 Op.92 第一楽章/ベートーヴェン(1770~1827 オーストリア)
さて次は、北イタリアから一足飛びにアルプス山脈を超えて、音楽の都ウイーンへ行ってみましょう。こちらでは、同じころあのベートーヴェンが活躍していました。しかし、ベートーヴェンは先ほどのロッシーニとは違い、オペラが苦手でした。生涯で「フィディリオ」という1曲のみを難産の末書きましたが、評判はいまいちでした。当地ウイーンでもオペラに関してはロッシーニの方が断然人気者です。ロッシーニは本日の「セヴィリアの理髪師」序曲もそうですが、同じ序曲を手軽に他のオペラに涼しい顔で転用していました。対照的にベートーヴェンは慎重すぎるというか、フィディリオでなんと3回も序曲を書き直しています(序曲「レオノーレ」第1番~3番)。
ところで、学校の授業などでは、ベートーヴェンはハイドン、モーツアルトなどとともに「古典派」と習ったのではないでしょうか。今日はロマン派の音楽のみのはずなのに、おまえはうそつきだあ!といわれてしまいそうですが、実は古典派からロマン派への交代が一夜にして行われたわけではないように、ベートーヴェン自身も古典派の形式に則って音楽を創るとともに、「英雄」や「運命」「田園」等、標題音楽のはしりといわれるように、音楽内容に意味を込めた取り組みを行っており、古典派音楽の完成者であると同時にロマン派の先駆者と考えるのが適切なのです。というわけで、今回ベートーヴェンを「ロマン派」として登場させたいと思います。
ベートーヴェンは、ナポレオンがモスクワ遠征で大敗北を喫した1812年に、交響曲第7番を完成させました。最近、巷(ちまた)で大人気のあの「ベト7」ですね。この曲は、「酩酊(めいてい)者の作品」「リズムの権化(ごんげ)」などとも言われており、わたくしたち日本人にはなんとも苦手なリズムの難曲です。ここは、酔っ払った気分で開き直るしかないのではとも思いますが…。理性や感性を超越したいわば「野生」のロマンが存分に発揮された名曲なのです。
【2️⃣民族主義の展開 ~後期ロマン派の拡がり~】
交響詩「わが祖国」よりモルダウ/スメタナ(1824~1884 ボヘミア)
前半でウイーンまで満喫しましたが、今度はやや北上してチェコのプラハを目指します。時代は19世紀後半に下ります。ロマン派の旅は、ついに西欧に抑圧されていた東欧諸国の民族意識の発露した素朴で情熱的な音楽に出合うことになります。「人間の自由な表現を重んずること」を目指したロマン派の流れは必然的にこれまで抑圧された民族の国民感情に火をつけることになります。長年ハプスブルク王朝に支配されてきた当時のボヘミアのスメタナは、真のチェコ人による音楽の確立を目指しました。彼が他国の支配下に苦しむ祖国を思い、燃えるような愛国の情熱を傾けて書き上げた曲が交響詩「わが祖国」6曲ですが、その第2曲目が「モルダウ」です。モルダウはドイツ語で、チェコ語では「ヴルタヴァ」と呼ばれ、チェコを代表するヴルタヴァ川の流れを、音楽で描写した作品です。
ウイーンの北西の奥深い山中に水源を発した川は第二の水源を併せ、ボヘミアの人の憂いと祈りを乗せて、絶えず波立って流れていきます。途中、森の狩猟の様子が描写されます。また、ポルカのリズムで婚礼の農民たちも踊っています。夜になると、柔らかな月の光の下、水の精の輪舞が幻想的に繰り広げられます。夜が明け、ますます豊かに波打つモルダウの流れは、けわしい山沿いに進み「聖ヨハネの急流」にさしかかります。そして平野に入ると、モルダウは川幅を広げ、いよいよチェコの都、プラハの街に入ります。モルダウのテーマは短調から長調に変わり、テンポもやや速くなり、古い都を、希望に満ち溢れた様子で堂々と流れていきます。やがて岸辺には、かつてボヘミア王家が住んだ高いお城、「ヴィシェラード」が現れてきます。「わが祖国」1曲目「ヴィシェラード」から取られた壮大なメロディは、「チェコに再び栄光の日々が現れる」という願いが込められているのです。その後モルダウは、ゆったりと流れながらエルベ川となってドイツ方面へ流れ去って行くのです。
大序曲「1812年」 Op.49 /チャイコフスキー(1840~1893 ロシア)
ロマン派の旅の最後は、チェコからさらに東へ進み、モスクワへとやってきました。さあ、後期ロマン派でロシア民謡を得意とするメロディ作曲家チャイコフスキーの登場です。本日は大序曲「1812年」を採り上げました。この曲は、その名のとおり、ナポレオンが大敗北を喫した1812年のロシア遠征の様子を生々しく描写したものです。
冒頭、あの強大無敵のナポレオン軍が攻めてくるというので、ロシア側は、不安の中でロシア正教の賛美歌を、祈りを込めてうたいます。これはチェロとヴィオラの6声部で担当します(第一主題)。しかし、不安は鎮まることなく、いやがうえにも増してきます。すると4分の4拍子に転じ、ロシア軍が迎撃をするために軍鼓(ぐんこ)の第ニ主題でリズミカルに出兵していきます(オーボエ、クラリネット、ホルン)。いよいよ決戦の火ぶたが切って落とされました。ナポレオン軍優勢のときはあのマルセイエーズが聞こえてきます。なまなましい戦闘の裏では、兵士の無事を祈るかのような民衆のロシア民謡が美しいメロディでヴァイオリン、ヴィオラで歌いだされます。ふとわれに返ると、いまだ激戦の真っ最中です。しかし、あれほど優勢だったマルセイエーズはだんだん崩れ去り、ロシアの勝利を確信させる下降音型のモチーフが延々と続いた後、最初と同じラルゴで第一主題の賛美歌が歓喜のうちに強奏され、祝福の鐘が乱打され、祝砲がとどろきます。軍鼓の第二主題がアレグロ・ヴィヴァーチェとなって勇ましく響く中、勝利のロシア国歌が高らかにうたわれて、荘厳豪華なこの大序曲を終わります。
如何でしたでしょうか。
今回は「ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ~」と題して音楽旅を進めてきました。これをきっかけに皆さんがより深く音楽へ関わりをもっていただけるとしたら、こんなにうれしことはありません。お読みいただきありがとうございました。
獅子鷹
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