日記・コラム・つぶやき

チャイコフスキー バレエ組曲「眠れる森の美女」Op.66a

 「このバレエ音楽は私の最良の作品の一つだと思っています。主題はとても詩情にあふれ、作曲しているあいだとても興奮しました・・。」

チャイコフスキーは、パトロンのフォン・メック夫人宛の書簡中で、1888年末~89年春にかけて猛烈な勢いで作曲した、バレエ音楽「眠れる森の美女」について高揚した筆致でこう書き綴っています。

 ”素敵な王子のキスにより100年の眠りから目覚めたオーロラ姫はめでたく王子と結ばれる”
この、ハッピーエンドを絵に描いたようなシャルル・ペロー原作のおとぎ話に基づくバレエ音楽は、1890年ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演されました。その評価やいかに!?というのも、チャイコフスキーは最初のバレエ音楽「白鳥の湖」を1876年に作曲し、世に問いましたが、まったく受け入れられずに失敗に終わっていたからです。

なぜか。

 実は、当時のバレエといえば、美しく舞うきれいな女の人を見に行くだけの娯楽。音楽といえば単なる伴奏で、“適当にあちこちから寄せ集めただけのうすっぺらいもの”という認識が一般的。そこにチャイコフスキーはシンフォニックで重厚多彩な音楽を持ち込んだものですから、観衆は目(耳?)が点になり、「白鳥の湖」は理解されずに打ち捨てられていたのでした。

 捲土重来、今度こそはと世に問うた「眠れる森の美女」。賛否両論があったものの、ようやく好意的に受け入れられたようでした。チャイコフスキーに作曲を持ちかけたマリンスキー劇場監督のフセヴォロシスキーは大成功とみなし、そのシーズンの興行の約半分を「眠れる森の美女」に充てました。さらにフセヴォロシスキーは「くるみ割り人形」を次の作品としてチャイコフスキーに注文を入れ、ここに「チャイコフスキー3大バレエ」が姿を現すことになります。なお、不遇をかこっていた「白鳥の湖」も1895年に復興上演され、今ではバレエ音楽至上最高作とまでいわれる超人気曲となっています。

 バレエ音楽を単なる”バレエの太鼓もち”から芸術の地位まで進化させたチャイコフスキーでしたが、この明るさに満ち溢れた「眠れる森の美女」(チャイコフスキーの作品にしては珍しく陰鬱さがみられない)を純粋に音楽的にも気に入っていましたので、コンサート用に何曲かをチョイスし、組曲を交響的作品として発表することを企図しました。そして、作曲家自身が決めると盲目になることをおそれたチャイコフスキーは、信頼できるジロティという人にこれを委任しましたが、ジロティ案のメモ用紙を紛失してしまいました。そのため、未解決のまま先送りされることになります。その後組曲のチョイスをめぐって様々なゴタゴタがあった末、この問題が解決したのは、チャイコフスキーの死後のことになります。ようやくジロティと出版社が合意し、このバレエ組曲「眠れる森の美女」が日の目を見ることになったのでした。聴く人ををしばしのおとぎ話にいざなうこの組曲は以下の5曲です。

・Ⅰ. 序奏 リラの精

・Ⅱ. アダージョ パ・ダクション(第1幕から、いわゆる「バラのアダージョ」)

・Ⅲ. パ・ド・カラクテール(長靴をはいた猫と白い猫)

・Ⅳ. パノラマ

・Ⅴ. ワルツ(第1幕)

 

獅子鷹

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“福島”か“FUKUSHIMA”か?

今日のNHKラジオで、あるミュージシャンがこんな趣旨の発言をしていた。

「福島を表現するとき、“福島”では、地震・津波・放射能でダメージを受けた特定の場所の意味にとどまってしまう。わたしは“FUKUSHIMA”と表現したい。こう表現することで、福島の人々や地域の痛みの共有や復興への思いだけでなく、“HIROSHIMA”同様、二度とこのような過ちをおかしてはならないというメッセージとして世界に発信するという意味を込めている...」

基本的に賛成である。

“このような過ち”とは、単に、想定外(この言葉、免罪符として乱発されていないか)の地震・津波で、あの甚大な放射能汚染を引き起こし、美しい福島を死の土地(風評被害を煽っているのでは全くない!)をにしてしまったからだけではない。本質的には、原子力発電を推進してきた行政のあり方・エネルギー政策さらにはグローバル経済に完全に組み込まれている経済のあり方や日本という国の方向性まで突き詰めて考えよ、というメッセージになりうると私は思う。このようなメッセージを、象徴的に“FUKUSHIMA”という横文字に込めて、持続的にしかも世界に伝えるということは、恥ずかしいとも言えるくらいもたもたしている政府の尻をたたくという意味でも大事だと思う。

しかし、である。たとえば、先ほど福島を“死の土地”と表現したが、福島で復興に取り組んで、日々生き抜いている方々にとっては、とんでもない!と叱られるであろう。ことほど左様に、象徴的に“FUKUSHIMA”といってしまうと、現場の血や汗と遊離して、観念だけで、物事が先鋭的に把握されるおそれもあるのである。つまり、悪気はないのに“死の土地”という言葉が独り歩きし、結果として、福島の方々の微妙繊細な思いを踏みにじる結果を生じることも出てくる。

こう考えると、いろいろな思いを込めた象徴的・理想的な“FUKUSHIMA”は、確かに大事ではあるが、その先には、やはり、日々、そのとき、その場所で福島を精一杯生きるなま身の生活に思いをいたす実体的・現実的な“福島”に還相回向することが一番大事であると思う。

理想を求め“FUKUSHIMA”という大空に飛び立った飛行機は、いずれ、母なる大地“福島”へ帰還するのである。まかり間違っても宇宙へ飛び出したり、墜落してはなるまい。

“福島”即是“FUKUSHIMA”

“FUKUSHIMA”即是“福島”

獅子鷹

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私的つぶやき【解題】

浅間山 天地のさけめ 霊たなびく

 -長野へ帰郷するたびに、ゆったりとした噴煙をたなびかせる活火山”浅間山”。そこは、紛れもなく、生きた山が息をしている真っ只中の風景でしょう。まさに、見えない大地から、生気がこの世に贈与される瞬間のこと。すなはち、霊の発出・生起の瞬間。私たちの呼吸の瞬間も同じことです。

朝顔や 迷路の先に かれんに咲け

 -朝露に濡れた朝顔が、複雑に長くからんだ華奢な茎の先に可憐に花をつけている。決して自己主張でない、ありのままの美しさ・・。私の吹くフレンチホルンも、かくありたいものである。

夏の熊 巨体ゆらせば あせしたたる

 -日本一暑い街、私の住む埼玉県熊谷。願わくば、ホッキョクグマになりたい・・。

オニグモと 真剣勝負し とらえられ

 -これは、自宅の周りで日常的に繰り広げられる風景です。でも、いつも彼らが一枚上手です。これが真実です。

しめ縄の 巨木堂々 土俵入り

 -かつて相撲に熱狂(つりにこだわった青葉山です)した一ファンとして、その神聖性を取り戻してほしいものです。

獅子鷹

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フィンランディアの普遍性とは

フィンランディアは交響曲第二番とならんで、シベリウスの代表作である。いうまでもなく、19世紀末以来の帝政ロシアの圧政からの独立を象徴するフィンランドの国民的楽曲であると同時に、独立後のスターリンなどによるソ連の露骨な圧迫時にもフィンランドの心の拠り所となってきた曲である。しかも、今日ではフィンランドはもとより、欧米、日本を始め世界で人気を得ており、当のロシアでさえ演奏されているのである。

私は中学生のときに初めてこの曲を聴いたが、なにやら底知れぬ怖さに圧倒され、中間部の旋律の美しさに圧倒され、最後の盛り上がりに圧倒されたことを覚えている。もちろん、作曲経緯や曲想の理解など知る由もない時分である。

それ以降、この曲がなんだか自分の一部であるような感覚がどこかにあり、演奏したり聴いたりするたびに不思議な感覚に襲われるのである。好きとか嫌いという感情を超えているのだ。これは一体何なのか。。演奏機会もなんだか私にいやにまとわりついている。最初は、中3のとき、ブラスバンドのコンクールの自由曲で。次は、大学に入学したての4月の大学オケ演奏会でいきなり前プロとしてホルンの1stを吹かされたとき。最近は所属オケの定演でのシベ2直後のアンコールで、等々。

この一見民族固有の曲が、世界的に愛される理由、また自分の一部であるかのように感じられる理由は何なのか。その答えが、昨日のNHK「アマデウス」シリーズのフィンランディアをヒントに一応得られた。

最大のヒントは他ならぬシベリウスの言ったといわれる以下の言葉である。

「作曲にピアノは要らない。静けさと自然があればいい」

武満徹も「作曲とは曲を作り出すのではなく、自然に存在する音をそのまま紡ぎだすだけだ」という趣旨のことをいっているが、これでピンときたのだ。

「アマデウス」での分析の概要は以下の通りである(一部私の追加・解釈補正あり)。

①アンダンテ・ソステヌート(嬰ハ短調):金管の主旋律でフィンランドの人々の「絶望」を表す。これを木管の「森」→弦の「大地」で受ける。

②アレグロ・モデラート:トランペットの弱起のファンファーレで「闘争」が始まる。

③アレグロ(変イ長調):闘争に打ち勝ち、「勝利」に向かう。

④中間部:コラール(フィンランド讃歌)

⑤再現部:③が発展的に再現され、圧倒的に幕を閉じる。

まさに、「絶望」→「闘争」→「勝利」と絵に描いたような筋書きである。ここまではいい。

次に、シベリウス自身が重きを置いた「自然」に着目した、普遍性の解釈を試みる。つまり、「フィンランドの」という限定を外した、内なる自然「こころ」のプロセスに置換してみたい。

①金管の主旋律で人々の根源的な「悪・苦」を表す。これを木管の「森」→弦の「大地」で受ける。つまり、序奏の短調のモチーフは、外なる自然である「森」や「大地」、内なる自然である「こころ」の実相を表象しているのだ。自然は内も外も穏やかとは限らない。思い通りにならないものなのだ。つまり、「悪」を抱え込んでいる。人には生きる限り「苦」はついて回るものなのだ。

②でも、やはり「悪・苦」はいやだ。トランペットの弱起のファンファーレで自己内の「悪・苦」との「闘争」が始まる。トランペットが「悪・苦」とたたかう己とすれば、これを否定する序奏の短調のモチーフや「シンコペーション」のモチーフ(悪の自然)が立ちはだかる。このせめぎ合いの果てに、

③5拍子相当のティンパニが静かに立ち上がり、力強く盛り上がって「悪・苦」に対する「勝利」の勝ち鬨を上げる。弱起5拍子というまだ不確かな歩みから確信の4拍子に向かうのである。しかし、繰り返し前のホルンの「シンコペーション」のモチーフでまだ「悪・苦」が不気味に遠吠えをするが、すぐさまトランペットのファンファーレで打ち消し、大きな長調の山を作って「悪・苦」を克服する。

④これまでに自然の根源的な「悪・苦」を克服したが、ここで、善悪とか苦楽とか闘争・克服といった2元的な対立を超えた境地に達する。木管による、序奏の短調のモチーフから転じた美しいメロディ(整えられた内なる自然・すなわち心である)は、さざなみのような弦のささやき(整えられた外の自然・大地である)に包まれて天上の歌を歌うのである(フィンランド讃歌)

⑤この境地に達すれば、ふとわれに返れば、現実は言祝ぐべきものとなる。すなわち、ベート-ベン同様「歓喜の歌」で終わることになる。この段階で以前執拗に立ちはだかった「シンコペーション」のモチーフから悪は消え去り、序奏の短調のモチーフから長調に転じたフィンランド讃歌の大合唱を支える、大地のモチーフへと再生して終わる。

こうして、フィンランディアは、ベートーベン第9と同様、こころの様相の弁証法的プロセスを見事に内包しているため、普遍性を得たといえると思う。

どおりで、自分の心の一部のような気がしたわけだなあ。もっとも、「私のフィンランディア」の終わりは遠い。。

獅子鷹

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呼吸はこころである

人は生まれて死ぬまで「呼吸」のお世話になる。おぎゃーと声を発する前に人生最初の「息」を吸い、「この人生は有意義な(あるいは無意味な?)人生であった」と呟き人生最後の息を吐いてこの世を去る。この間、人は休むことなく呼吸を繰り返す。感情の乱れから過吸状態になり、無意識にため息が出てしまう。こころを落ち着けるために、努めて深呼吸をする。。無意識・意識に関わらず、呼吸は私たちの生活にぴったり寄り添っており、こころそのものといっていい(実際、「息」は「自」らの「心」と読める)。

息は「呼」と「吸」の繰り返しからなる。

これを振り子の運動に喩えてみる。振り子が周期運動をするためには、錘を真下から斜め上に引き上げる必要がある。この行為が人生最初の「吸」である。息をいっぱいに吸うと次の瞬間息を吐く「呼」に転ずる。この転換点が振り子運動の「端」である。この端では錘は運動自体を一瞬静止する(エネルギー保存則では位置エネルギー最大、運動エネルギーゼロ)。人でいうと絶景を見たときに思わず息を呑んで目に焼き付ける行為というのだろうか(ニーチェのパースペクティズム(=一瞬の眺望をあたかも永遠の存在と錯覚すること)の現前ともいえる)。とにかく「生」をもっとも鮮やかに感じる瞬間であろう。

次に息を「呼」に転じると、息をハーッと吐き、やがて苦しくなって、息を「吸」に転ずる瞬間がやってくる。振り子の錘が「端」からやおら真下を目指して動き出し、いよいよ加速度を増して真下を一瞬にして最大速度で通過したその瞬間のことである。この時点で位置エネルギーはゼロ、運動エネルギーは最大。人でいうと息を吐ききり、もう吐けない、苦しい、死んでしまう、すべてがぐるぐる回り、思考するどころでなくなる状態。つまり「死」にもっとも近づく瞬間ではないか。

この死にふれた瞬間錘は、振り子の反対側に飛び出して「吸」が復活するのである。そしてまた反対の端まで振れ、また戻る。これの繰り返し。そして空気の摩擦などにより、だんだん振り幅が縮まり、やがて静止する(本当の死を迎える)。

ふつうはなんとなく呼吸をしているが、実は、一呼一吸の度に「生死」を繰り返していることに気づくといろいろなことがわかってくる。

たとえば、自殺を考える。死にたいと思って死ぬ人は(殉教者を除いて)まずいまい。だれでも生きたいのだ。こんなに生きたいのに世の中が思い通りにならない。「生きたい」といってこころが発散しきったまま自らの命を絶つ。。つまり、振り子が端に行ったときに自らの錘をつなぐ糸を切ってしまうのである。錘の運命はいかばかりか。。死後、錘(自分)はどこへいってしまうのか。生と死が離ればなれとなり、股裂きに遭ったような死。こんな悲劇はないと思う。

また、溺死は一番残酷な死に方といわれる(経験談がないので断定は避ける)。やはり、生きたい(酸素を吸いたい)のにかなわずに、生の端に向かう途上で死なざるを得ないからではないのか。。

仏教や東洋医学では呼吸の「呼」を重んじる。「呼」を大切にせよ。「吸」は自然にまかせよ、と。つまり、「呼」を大切にして、息を吐ききっていったん死にきれ。すると、死の底から自然と復活し、我の消失した覚の境地であたらしい生が自然と他力的に現前するというのである。キリストは十字架で磔死後、神の子イエスとして復活した。彼は身を以って呼吸の大切さを示したとさえいえるのだ。瞬間瞬間の呼吸でこの境地を体得できれば、なんと楽しいことか。

私はフレンチホルンを吹いているが、演奏自体が呼吸そのものである。音をだす間は「呼」つまり死に向かう聖なる瞬間なのだ。「吸」はそのための準備である。そもそも「呼」という字は声や音を立てる(呼ぶ)という意味であるから、弦楽器であれ管楽器であれ打楽器であれ声楽であれ、あらゆる演奏は死に触れる聖なる行為といえる。音楽は理屈抜きにリアルに触れる行為なのである。だから、やめられない。。

ちなみに、呼吸は意識していないときは本能的な身体のもの、意識的に統御するときはこころのものである。つまり、こころと身体を絶対矛盾的に統合する「魂」のものである。

呼吸を制する者、魂/こころを制する。すなわち、自らを律することができるのである。

獅子鷹

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幸福の家族モデルとは?

先日の読売新聞人生案内(6/19)は、「夫への愛情が冷めた、どうしたらいいか?」というものだった。これに対する元女子マラソン選手の増田明美さんの回答があまりにも見事だっだので、紹介したいと思います。

問いの要旨「30歳台主婦。結婚10年。私は細かい性格。夫はマイペース。ここ数年夫の嫌な面(靴や服脱ぎっぱなし、おなか出る・・)ばかり目立ち、好きという気持ちが失せ、小言ばかり言っている。ただ仕事はまじめ、育児には協力的。子供に好かれる。何年たっても好きでいられる男性が他にいたのではと、最近後悔が募る。愛情が冷めたというだけで離婚するのはだめか」

回答要旨「父親としては満点。でも気になることは思い切って言おう(子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて、健康のために少しやせて・・)。「愛情が冷めた」とあなたは言うが、「恋愛感情」が冷めただけでは。夫や子供に愛情を感じることは多々あるでしょう。「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」

うーん、非の打ち所がありません。完全な模範解答。と、ここで終わってもいいのですが、ちょっと、以下の「家族の役割構造図」で分析してみたいと思います。

Photo_5   どこやらで見かけた「ボロメオの輪」がまたもや登場しました。「家族」はこの三位一体構造で説明できると思います。

母は万物を生み出す根源として大地に相当します。父はこの世(家族)の大黒柱たる「象徴」として天に相当します。無明の混沌から天地が分かれ、世界が誕生します(まあ、一組のカップルが誕生したといっていいでしょう)。母(大地)からは「生命本能愛」が天に向けて陽炎のように発せられます。これが天に達しやがて水蒸気・雲となり、父(天)は大地に心地よい雨を降らせます。これが「結婚」です。潤い続けた地上には多くの生命体が誕生します。すなわち、子供が生まれ、「家族」が誕生します。以上が自然洞察から生まれた家族像(仮説)です。

女である母は、本性として愛を純粋贈与する存在です。子供に対しては無償の母性愛、夫に対しては女としての生命本能愛を無償で注ぎ続けるのが「自然」の状態です。なお子供は一方的に「奪う愛」です。(この愛が足りないと子供は切れるようになるのです)

子供は羊水内以来の母親との一体関係に夢見心地ですが、ふと気づくと、家庭内に母子の仲を切り裂く「父」の存在を知ることになります(エディプス・コンプレックスの始原ともいえます)。一方、父は父で自分の子孫が増えたことのみに満足し、妻の乳房を独占する子を厭わしくさえ思います。この相反する関係を乗り越えるには「理性」しかありません。かくて、父と子は理性愛(愛の本性ではない)で結ばれることなります。

夫は妻からの愛を受けて(陽炎)これに気づいて初めて愛(雨)を注ぐのが自然な状態といえます。つまり、妻はいつでも愛を発信し、答え(「愛しているよ」というコトバでもいい)を待っているのが自然状態なのですね。ところが、夫は、陽炎を受けても、気づかなかったり、陽炎が濃すぎて煩わしくなってつい違う大地(余所の女?)に怪しい雨を降らせてトラブったりするのですね。

さて、事例に戻ります。

夫は「育児には協力的。子供に好かれる。」ですから、「子-父」関係はOK。ただ「子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて」=理性をもう少し働かせて。また、「健康のために少しやせて」は「母-父」の生命本能愛の発現ですから「マイペースの夫」に気づいてもらうためにも「細かい性格」を生かして思い切って言おう。(付け加えると、夫は妻の愛の発現に気づき、まめにプレゼントなどの愛情表現をすると円満になるのです。)

最後に、「「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」まさにボロメオの輪の「母-父-子」が重なるところ「家族愛(無償的)」の重要性を喝破しているのです。完璧!

獅子鷹

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出雲大社に詣でる3

本殿前で一通りの説明を受けた後、改めてざっと内部を覗き込む。八雲の天井絵は正面の蔀(立ち入り禁止線)から身を乗り出さないとよく見えないので、寝そべったり、倒れこみそうになる人もいた。それより気になるのは、大黒柱右奥の御神座である。もっとも、本殿正面からは中央の大黒柱と右側の側柱を結ぶ板仕切りによって直接は見えないようになっている。蔀の最左端からわずかに空間の一部が覗けるのみである。

まあ、主は仮殿へ引っ越したのだから、霊界の盟主の気配はなく、もぬけの殻という印象であった。ほんとうになにもいなかった。(だから、俗人が入れるのだが。)

ということは、普段はやはり大国主命が「いる」のだろうか。そう「いる」のである。八百万の国日本では、古くから自然や森羅万象に神が宿ると信じている。水に水神、風に風神、木に木霊といった具合に目に見えるものにはそれを成り立たせる「何か見えないもの」がはたらいており、これを「神」というのだ。しかし、何かが見えるやいなや、神はお隠れになる運命にある。日本人には、この直観が腑に落ちるのである。

だから、大国主命=神はお隠れになっていてけっして見ることはできないが同時に「いる(観るのである)」ということになる。目に見える日本国が天皇を戴いて存続できるのは、目に見えない霊界の神の親分たる彼のお陰である。ということか。

蛇足だが、国名「日本」はなかなかに本質的な名称だ。何せ、「日、太陽」=天照、「本、根源」=大黒で、「日即是本」ということになる。これで一切を表しきっているといえる。

そんなことをつらつら考えつつ、階段をよろけながら降り、なんだかボーっとしながら八足門を出た。そうだ。もう空腹に耐えられない。はやく荒木屋の出雲そばを戴こう。銘酒「八千矛」を入手しよう。なーにこれも、大黒様の思し召しにちがいない。

獅子鷹

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出雲大社に詣でる2

バス停横の鳥居から本殿や拝殿(今は仮本殿として大国主命が仮住まい中)のある境内「荒垣」まで約数百メートルあり、参道が木立の中をなだらかに下りながら一直線に伸びている。まるで、荒垣に吸い寄せられるようにただひたすら歩く。すると、目指す本殿特別拝観の行列が荒垣正門の外まで50メートルほどはみ出しているのが見える。この列の最後尾に並んだのが、8:30過ぎ。P5130019

この日の拝観開始は9:30からであるが、もう前倒しで受付は始まっているようだった。並ぶや否や、ホッとしたのか眠気・空腹・頸痛が復活。加えて、雨が降り始めた。しかも小雨が降っては薄日が差すという不安定な天気。「大黒様」もちとご機嫌ななめか。(アパート仮住まい中に、改築中の我が家を他人に覗かれるなんていやだもんなあ。でもそこは霊界の盟主。喜んで受け入れてくれるだろう)P5130020

列は1時間ほどで本殿前へ進み、本殿前の八足門脇の受付テントで記帳を済ませて「御本殿特別拝観之証」なる券片を受け取り、いよいよ通常は天皇陛下も入場を許されない本殿へ。(ここから先は撮影禁止)

八足門の中で靴をぬぎ、真新しい白木が敷き詰められた通路を進み、急な勾配の階段を上ると、本殿が眼前にぬっと現れた。ぐるりと建屋を取り囲む縁側を南から反時計回りにゆっくり進み、最後に南面の正面前でお宮の人のお話をききながら、内部を覗き込む。

「右奥の仕切り奥が大国主命の御神座です。今は留守中です。ちょうど真ん中の柱が直径1.1メートルの「心中柱」です。まさに「大黒柱」です。天井に描かれているのが有名な「八雲之図」です。1744年の造営遷宮の際に描かれました。八雲なのに七つしか雲はありません。理由ははっきり分かっていません。一説では、近くの神社に九つの雲があり、ここの雲が飛んでいったとも言われています・・・」

(つづく)

獅子鷹

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出雲大社に詣でる

P5130016_3 先日、思い立って出雲大社に詣でた。出雲大社では、今年から平成25年にかけて、60年に一度の国宝本殿の屋根の葺き替えなどの改修を行っており、先月4月20日には祭神の大国主命(大黒様)を仮殿へ移す「仮殿遷座祭」が行われ、主が留守になった本殿を拝観できるため、ちょっと興味を引かれたのである。

出雲大社は一生に一度は行ってみたいと思っていたし、60年に一度の本殿拝観のチャンス(40代の私にとって今後事実上もう無い)という俗っぽい興味もあった。また、割子の出雲そばや地酒などに舌鼓をうちたいという本来!?の目的もあった。

大丸地下で「すし鉄」の鉄火巻きを買い、夜7時すぎに東京八重洲でスサノウ号という夜行バスに乗り、揺られること12時間。翌朝7時すぎに出雲市駅前に到着。朝飯も食べず、睡眠不足を取り戻す仮眠もせず、寝違えて痛めた頸をさすりながら、すぐに、大社行きの畑電バスに乗り換えた。目的は単純明快。本殿特別拝観の列に早く並ぶこと!!

バスは通学時間帯と重なり、多くの参拝客のほかに女子高生が多く乗り込んできて、私の隣にも座った。高齢の方も多い参拝客の高揚したざわめきある雰囲気とは対照的に、彼女たちは、試験勉強であろうか、なにやら静かに真剣にノートに見入っている。何気に目をやると、「デモクリトスの主張は」「善のイデアとは何か」「ニコマコス倫理学とは何か」などの文字が躍っている。思わず「がんばって」と心の中で応援していた。と同時に、西洋哲学の起源のギリシャ哲学を学ぶ彼女たちの生まれ育った地に「出雲神話」があることを羨ましくも思った。先に国土を形成して「国つ神」となり、後に「天つ神」の天照大神に国を譲った大国主命は、目に見える存在の盟主となった天照(天皇の先祖)に対して、目に見えない霊界の盟主となり、生死一如で日本国を支えているというのだ。「千と千尋の神隠し」はまさにこのことがテーマ。目に見える世界では「千尋」という個別の名前をもった少女は、新興住宅街のはずれのテーマパークのトンネル(この世と霊界との境界)をくぐり、「千」となる。すなわち、名前を奪われる(千=たくさん、八百万の世界)ことになる。

彼女たちは大社直前のバス停で整然と降りていった。

程なく、巨大なコンクリート製鳥居が現れて、まっすぐに北に伸びる門前町にはいり、一畑電車の駅を横に見てさらに進むと、樹木に覆われた神域が忽然と現れ、俗界と分かつように鳥居が立っていた。ここでバスを降り、鳥居の前に立った。バスの中では眠気と空腹と頸痛に苛まれていたのだが、なぜかすべて止んだ。

覚醒した目で鳥居の奥を凝視する。はるかかなたの正面に、本殿が陽炎のように見えた。

次の瞬間、足取りも軽く、本殿を目指していた。

獅子鷹(つづく)

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私的つぶやき

浅間山 天地のさけめ 霊たなびく

朝顔や 迷路の先に かれんに咲け

夏の熊 巨体ゆらせば あせしたたる

オニグモと 真剣勝負し とらえられ

しめ縄の 巨木堂々 土俵入り

獅子鷹

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