音楽

ワーグナー 歌劇「リエンツィ」序曲

  ドイツ・ロマン派の大御所であるワーグナーですが、音楽家としてのスタートは苦しいものでした。音楽理論や作曲をはじめとする教養はほぼ独学。その師匠はウエーバーのドイツオペラ、ベートーヴェンの交響曲、シェークスピアの戯曲といった具合でした。成人後、三流の指揮者から合唱長・編曲者・写譜者とあらゆる音楽の仕事に悪戦苦闘していました。

  そんなどん底の生活をしていたあるとき、歴史小説「ローマ最後の護民官リエンツィ」を読み、当時のオペラ界を席捲していたグランド・オペラ様式の格好の素材になると直感し、1838年に台本スケッチに着手。2年後のパリ時代に完成したワーグナー最初のオペラが「リエンツィ」です。

 1842年のドレスデン宮廷劇場での初演は大成功。彼が本格的なオペラ作曲家として踏み出した作品です。

 内容は、14世紀ローマで、横暴を極めた貴族に対抗して共和政治を打ち立てたリエンツィの悲劇的物語を描いています。しかし、オペラとしてはあまりにも長大で、今日、上演されることはほとんどありません。唯一序曲はその劇的効果などから(破天荒なオーケストレーションですが・・)頻繁に演奏されます。

 序曲はリエンツィが、民衆に革命を呼びかける荘厳なトランペットの奏出から始まります。次にリエンツィの祈祷歌「全能の天よ、護りたまえ」が奏され、主部に入ります。リエンツィの雄叫び「聖なる魂の騎士」、彼の妹とその恋人の二重唱「慈悲への感謝の歌」が、主題として用いられ華やかに展開されて、ほとんど破滅的な盛り上がりとなって終わります。

                                                       獅子鷹

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ワーグナー 歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲

 ワーグナーはドイツ・ロマン派の巨星で、いわゆる“未来の総合芸術”という一種のユートピア的芸術形態を目指し、個々の芸術要素(音楽、文学、舞踊・・)はドラマ(=楽劇)という総合形態に統合されるべきとしてその実現に奔走した希代の音楽家です。要するに、まず、従来の歌劇は堕落した、器楽音楽はベートーヴェンの第9をもって使命を全うした、個々の交響曲は無価値だと否定し去ります。そして、すべての芸術は、“ドラマ”という目的に奉仕すべきだというのです。これは、大作「ニーベルングの指環」4部作の理論的根拠にもなり、同時代以降の音楽芸術に甚大な影響を与えました。(ドヴォルザークも ブラームスに会うまでは熱烈なワグネリアンで、プラハで上演されるワーグナー物は欠かさず観賞しています)

 とはいえ、この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、肩の力が抜けたというか、例外的にワーグナーほとんど唯一の大衆的な喜歌劇の部類に入るものです。初稿は、タンホイザー初演の1845年、完成は「指環」や「トリスタンとイゾルデ」などをはさみ約20年後の1867年。1868621日、ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場でハンス・フォン・ビューローの指揮により初演されました。

 今回採り上げる第一幕への前奏曲は、劇中の主要動機が明確なかたちで要約されており、この歌劇全体の戯曲的構成が見事に織り成されています。

獅子鷹

 

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ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」

 序曲「ローマの謝肉祭」(ローマのしゃにくさい、フランス語:Le Carnaval Romain)は、エクトル・ベルリオーズが作曲した管弦楽曲です。なお、本籍はオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」(1838年)の第2幕の序曲であり、オペラ自体は失敗作とみなされて今日ほとんど演奏されてiいません。しかし、この序曲のみが単独で取出され、ベルリオーズの管弦楽曲の中では吹奏楽版編曲を含め今日最も頻繁に演奏されています。

 19世紀後半、この曲を聴いたある人は「この曲は、一杯のアルコールに刺激よって、極度に興奮した巨大なヒヒが、跳ね回り、きゃっきゃと叫ぶ姿にしかたとえられない」と貶しましたが、どうでしょうか、高尚な謝肉祭なんてありえないことですし、かえって“お祭り騒ぎ”感を素直に伝えているようにも思えます。

  曲は、“謝肉祭”のサルタレロの主題による序奏ののち、まずコールアングレがアリアの主題を穏やかに演奏します。これが、熱狂を予感させるかのように次第にリズムの刻みを増しながら変奏されたあと、舞台は“謝肉祭”の真っ只中に転じます。その後、再びアリアの主題が顔をのぞかせながら、手の舞い足を踏むことを知らないクライマックスに達して高らかに終結します。

獅子鷹

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チャイコフスキー バレエ組曲「眠れる森の美女」Op.66a

 「このバレエ音楽は私の最良の作品の一つだと思っています。主題はとても詩情にあふれ、作曲しているあいだとても興奮しました・・。」

チャイコフスキーは、パトロンのフォン・メック夫人宛の書簡中で、1888年末~89年春にかけて猛烈な勢いで作曲した、バレエ音楽「眠れる森の美女」について高揚した筆致でこう書き綴っています。

 ”素敵な王子のキスにより100年の眠りから目覚めたオーロラ姫はめでたく王子と結ばれる”
この、ハッピーエンドを絵に描いたようなシャルル・ペロー原作のおとぎ話に基づくバレエ音楽は、1890年ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演されました。その評価やいかに!?というのも、チャイコフスキーは最初のバレエ音楽「白鳥の湖」を1876年に作曲し、世に問いましたが、まったく受け入れられずに失敗に終わっていたからです。

なぜか。

 実は、当時のバレエといえば、美しく舞うきれいな女の人を見に行くだけの娯楽。音楽といえば単なる伴奏で、“適当にあちこちから寄せ集めただけのうすっぺらいもの”という認識が一般的。そこにチャイコフスキーはシンフォニックで重厚多彩な音楽を持ち込んだものですから、観衆は目(耳?)が点になり、「白鳥の湖」は理解されずに打ち捨てられていたのでした。

 捲土重来、今度こそはと世に問うた「眠れる森の美女」。賛否両論があったものの、ようやく好意的に受け入れられたようでした。チャイコフスキーに作曲を持ちかけたマリンスキー劇場監督のフセヴォロシスキーは大成功とみなし、そのシーズンの興行の約半分を「眠れる森の美女」に充てました。さらにフセヴォロシスキーは「くるみ割り人形」を次の作品としてチャイコフスキーに注文を入れ、ここに「チャイコフスキー3大バレエ」が姿を現すことになります。なお、不遇をかこっていた「白鳥の湖」も1895年に復興上演され、今ではバレエ音楽至上最高作とまでいわれる超人気曲となっています。

 バレエ音楽を単なる”バレエの太鼓もち”から芸術の地位まで進化させたチャイコフスキーでしたが、この明るさに満ち溢れた「眠れる森の美女」(チャイコフスキーの作品にしては珍しく陰鬱さがみられない)を純粋に音楽的にも気に入っていましたので、コンサート用に何曲かをチョイスし、組曲を交響的作品として発表することを企図しました。そして、作曲家自身が決めると盲目になることをおそれたチャイコフスキーは、信頼できるジロティという人にこれを委任しましたが、ジロティ案のメモ用紙を紛失してしまいました。そのため、未解決のまま先送りされることになります。その後組曲のチョイスをめぐって様々なゴタゴタがあった末、この問題が解決したのは、チャイコフスキーの死後のことになります。ようやくジロティと出版社が合意し、このバレエ組曲「眠れる森の美女」が日の目を見ることになったのでした。聴く人ををしばしのおとぎ話にいざなうこの組曲は以下の5曲です。

・Ⅰ. 序奏 リラの精

・Ⅱ. アダージョ パ・ダクション(第1幕から、いわゆる「バラのアダージョ」)

・Ⅲ. パ・ド・カラクテール(長靴をはいた猫と白い猫)

・Ⅳ. パノラマ

・Ⅴ. ワルツ(第1幕)

 

獅子鷹

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ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ

  

 本日は「ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ~」と題してロマン派音楽の「名所」を巡っていきたいと思います。前半は「北イタリアから音楽の都ウイーンへ」という西洋音楽のメイン・ストリートを歩いてみたいと思います。後半は、どちらかというと西欧主流派に抑圧されていた東欧やロシアの、民族主義が発露した後期ロマン派音楽に焦点を当てます。

【1️⃣自由な表現を求めて ~前期ロマン派の勃興~】

歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲/ロッシーニ(17921868 イタリア)

 ロマン派とはどんな意味なのでしょうか?皆さんご存知ですか?いろいろな解釈がありますが、一言でいうと、「人間の自由な表現を重んずること」といっていいと思います。よく対比されるのが、「古典派」音楽ですが、こちらは和声や対位法による規律、厳格な表現形式といったイメージですが、ロマン派は、規律に対して「自由」、表現形式に対して「表現内容」といったところでしょうか。

 ところで音楽におけるロマン派の幕開けといえば、19世紀初頭のウエーバーかシューベルトあたりになりますが、本日は、彼らと同時期に活躍した北イタリア生まれロッシーニの歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲から開始します。先ほどロマン派の特徴は「表現内容」といいましたが、歌劇はまさにストーリーのある「内容」そのものですね。「セヴィリアの理髪師」序曲は、歌劇の序曲の草分けでもあり、またもっともポピュラーな器楽曲でもあり、ロマン派の旅のトップバッターにうってつけといえましょう。 

交響曲第7番 イ長調 Op.92 第一楽章/ベートーヴェン(17701827 オーストリア) 

さて次は、北イタリアから一足飛びにアルプス山脈を超えて、音楽の都ウイーンへ行ってみましょう。こちらでは、同じころあのベートーヴェンが活躍していました。しかし、ベートーヴェンは先ほどのロッシーニとは違い、オペラが苦手でした。生涯で「フィディリオ」という1曲のみを難産の末書きましたが、評判はいまいちでした。当地ウイーンでもオペラに関してはロッシーニの方が断然人気者です。ロッシーニは本日の「セヴィリアの理髪師」序曲もそうですが、同じ序曲を手軽に他のオペラに涼しい顔で転用していました。対照的にベートーヴェンは慎重すぎるというか、フィディリオでなんと3回も序曲を書き直しています(序曲「レオノーレ」第1番~3番)。

ところで、学校の授業などでは、ベートーヴェンはハイドン、モーツアルトなどとともに「古典派」と習ったのではないでしょうか。今日はロマン派の音楽のみのはずなのに、おまえはうそつきだあ!といわれてしまいそうですが、実は古典派からロマン派への交代が一夜にして行われたわけではないように、ベートーヴェン自身も古典派の形式に則って音楽を創るとともに、「英雄」や「運命」「田園」等、標題音楽のはしりといわれるように、音楽内容に意味を込めた取り組みを行っており、古典派音楽の完成者であると同時にロマン派の先駆者と考えるのが適切なのです。というわけで、今回ベートーヴェンを「ロマン派」として登場させたいと思います。

ベートーヴェンは、ナポレオンがモスクワ遠征で大敗北を喫した1812年に、交響曲第7番を完成させました。最近、巷(ちまた)で大人気のあの「ベト7」ですね。この曲は、「酩酊(めいてい)者の作品」「リズムの権化(ごんげ)」などとも言われており、わたくしたち日本人にはなんとも苦手なリズムの難曲です。ここは、酔っ払った気分で開き直るしかないのではとも思いますが…。理性や感性を超越したいわば「野生」のロマンが存分に発揮された名曲なのです。

 【2️⃣民族主義の展開 ~後期ロマン派の拡がり~】

 交響詩「わが祖国」よりモルダウ/スメタナ(18241884 ボヘミア) 

前半でウイーンまで満喫しましたが、今度はやや北上してチェコのプラハを目指します。時代は19世紀後半に下ります。ロマン派の旅は、ついに西欧に抑圧されていた東欧諸国の民族意識の発露した素朴で情熱的な音楽に出合うことになります。「人間の自由な表現を重んずること」を目指したロマン派の流れは必然的にこれまで抑圧された民族の国民感情に火をつけることになります。長年ハプスブルク王朝に支配されてきた当時のボヘミアのスメタナは、真のチェコ人による音楽の確立を目指しました。彼が他国の支配下に苦しむ祖国を思い、燃えるような愛国の情熱を傾けて書き上げた曲が交響詩「わが祖国」6曲ですが、その第2曲目が「モルダウ」です。モルダウはドイツ語で、チェコ語では「ヴルタヴァ」と呼ばれ、チェコを代表するヴルタヴァ川の流れを、音楽で描写した作品です。

ウイーンの北西の奥深い山中に水源を発した川は第二の水源を併せ、ボヘミアの人の憂いと祈りを乗せて、絶えず波立って流れていきます。途中、森の狩猟の様子が描写されます。また、ポルカのリズムで婚礼の農民たちも踊っています。夜になると、柔らかな月の光の下、水の精の輪舞が幻想的に繰り広げられます。夜が明け、ますます豊かに波打つモルダウの流れは、けわしい山沿いに進み「聖ヨハネの急流」にさしかかります。そして平野に入ると、モルダウは川幅を広げ、いよいよチェコの都、プラハの街に入ります。モルダウのテーマは短調から長調に変わり、テンポもやや速くなり、古い都を、希望に満ち溢れた様子で堂々と流れていきます。やがて岸辺には、かつてボヘミア王家が住んだ高いお城、「ヴィシェラード」が現れてきます。「わが祖国」1曲目「ヴィシェラード」から取られた壮大なメロディは、「チェコに再び栄光の日々が現れる」という願いが込められているのです。その後モルダウは、ゆったりと流れながらエルベ川となってドイツ方面へ流れ去って行くのです。

大序曲「1812年」 Op.49 /チャイコフスキー(18401893 ロシア) 

ロマン派の旅の最後は、チェコからさらに東へ進み、モスクワへとやってきました。さあ、後期ロマン派でロシア民謡を得意とするメロディ作曲家チャイコフスキーの登場です。本日は大序曲「1812年」を採り上げました。この曲は、その名のとおり、ナポレオンが大敗北を喫した1812年のロシア遠征の様子を生々しく描写したものです。

冒頭、あの強大無敵のナポレオン軍が攻めてくるというので、ロシア側は、不安の中でロシア正教の賛美歌を、祈りを込めてうたいます。これはチェロとヴィオラの6声部で担当します(第一主題)。しかし、不安は鎮まることなく、いやがうえにも増してきます。すると4分の4拍子に転じ、ロシア軍が迎撃をするために軍鼓(ぐんこ)の第ニ主題でリズミカルに出兵していきます(オーボエ、クラリネット、ホルン)。いよいよ決戦の火ぶたが切って落とされました。ナポレオン軍優勢のときはあのマルセイエーズが聞こえてきます。なまなましい戦闘の裏では、兵士の無事を祈るかのような民衆のロシア民謡が美しいメロディでヴァイオリン、ヴィオラで歌いだされます。ふとわれに返ると、いまだ激戦の真っ最中です。しかし、あれほど優勢だったマルセイエーズはだんだん崩れ去り、ロシアの勝利を確信させる下降音型のモチーフが延々と続いた後、最初と同じラルゴで第一主題の賛美歌が歓喜のうちに強奏され、祝福の鐘が乱打され、祝砲がとどろきます。軍鼓の第二主題がアレグロ・ヴィヴァーチェとなって勇ましく響く中、勝利のロシア国歌が高らかにうたわれて、荘厳豪華なこの大序曲を終わります。

 如何でしたでしょうか。

今回は「ロマン派の旅~北イタリア発ウイーン経由モスクワへ~」と題して音楽旅を進めてきました。これをきっかけに皆さんがより深く音楽へ関わりをもっていただけるとしたら、こんなにうれしことはありません。お読みいただきありがとうございました。

                                                         獅子鷹

 

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メンデルスゾーン 劇音楽「夏の夜の夢」より序曲(Op.21)、スケルツォ・間奏曲・夜想曲・結婚行進曲(Op.61)

 皆さんは現実と夢の区別をつけられますか?普通に考えれば、つけられますよね。普段の日常生活が現実だし、眠っているとき見るのが夢で、ちゃんと頭ではわかっています。でも、たとえば、憧れの人に出会っただけで「夢」見心地になるし、夢で憧れの人とデートして「夢よ覚めるな=現実であってくれ~」と願ったりします(あるいは悪夢があまりにもリアル(=現実的)で目覚めが悪い・・)。つまり、現実と夢は白黒に峻別できるものではなく、いつでも隣り合わせあるいは溶け合って共存している事態だといえないでしょうか?つまり、「現実/夢=人が体験できるこの世の世界」と定義できます。ところが、「この世」とくれば「あの世」があるはずです。いわば人が絶対体験できない、あちら側の世界です。しかし、わずかながら人はあちらの世界を垣間見ることができます。唯一、「夢」を媒介にして…。

 シェークスピアが書いた戯曲「夏の世の夢」は、まさに「この世」と「あの世」が夏至の夜(夏至は昼夜の長さが最も異なるため、バランスを崩してあの世の妖精や悪魔が登場するといわれています)の「夢」を舞台に百花繚乱する神秘的な物語です。この物語で「夢」とは「アテネ近郊の森」が舞台となります。

 戯曲のあらすじと上記の「現実」「夢」の関係は次の通りです。ただし、上記の通り、現実もすべては「夢」に包含されることになるでしょう!まさにすべて「夏の世の夢」!!

【現実1】アテネ公シーシアスとアマゾン国のヒポリタとの結婚式が間近に迫っており、その御前から舞台は始まる。貴族の若者ハーミアとライサンダーは恋仲であるが、ハーミアの父イジーアスはディミートリアスという若者とハーミアを結婚させようとする。ハーミアは聞き入れないため、イジーアスは「父の言いつけに背く娘は死刑とする」という古い法律に則って、シーシアスに娘ハーミアを死刑にすることを願い出る。シーシアスは悩むものの、自らの結婚式までの4日を猶予としてハーミアへ与え、ディミートリアスと結婚するか死刑かを選ばせる。ライサンダーとハーミアは夜に抜け出して森で会うことにする。ハーミアはこのことを友人ヘレナに打ち明ける。ディミートリアスを愛しているヘレナは二人の後を追う。ハーミアを思うディミートリアスもまた森に行くと考えたからだ。

【現実2】シーシアスとヒポリタの結婚式で芝居をするために、ボトムら6人の職人が一人の家に集まっている。役割を決め、練習のために次の夜、森で集まることにする。かくして、10人の人間が、夏至の夜に妖精の集う森へ出かけていくことになる。 

【夢1】森では妖精王オーベロンと女王ティターニアが連れ子を巡って、仲違いしていた。機嫌を損ねたオーベロンは妖精パックを使って、ティターニアのまぶたに花の汁から作った媚薬をぬらせることにする。キューピッドの矢の魔法から生まれたこの媚薬は、目を覚まして最初に見たものに恋してしまう作用がある。パックが森で眠っていたライサンダーにもこの媚薬を塗ってしまうことで、ライサンダーとディミートリアスがヘレナを愛するようになり、大混乱。また、パックは森に来ていた職人ボトムの頭をロバに変えてしまう。目を覚ましたティターニアはこの奇妙な者に惚れてしまう。

【夢2】オーベロンはティターニアが気の毒になり、ボトムの頭からロバの頭をとりさり、ティターニアにかかった魔法を解いて二人は和解する。また、ライサンダーにかかった魔法も解かれ、ハーミアとの関係も元通りになる。一方、ディミートリアスはヘレナに求愛し、ハーミアの父イジーアスに頼んで娘の死刑を取りやめるよう説得することにする。

【現実3】これで2組の男女、妖精の王と女王は円満な関係に落ち着き、6人の職人たちもシーシアスとヒポリタの結婚式で無事に劇を行うことになった。

さて、メンデルスゾーンが作曲した劇音楽「真夏の夜の夢」です。まず、17歳のメンデルスゾーンがシェークスピアの「真夏の夜の夢」のドイツ語訳を読み,序曲を一気に作曲しました。その17年後,プロシア国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世に命じられて書いたのが残りの12曲です。

以下は、組み合わせてコンサートで演奏される曲群です。

  • 序曲 Overture op.21

ソナタ形式。冒頭からすべては「夢」であることを暗示。木管楽器群による「何かおこるぞ」という感じの微妙な「森」の和音に続き,弦楽器の繊細な動きによる第1主題が出る。これは妖精の戯れを表現している。続いて,シーシアスの宮廷を示す壮麗なメロディ。第2主題は劇中に出てくる恋人たち。甘く下降してくるような優雅なメロディ。さらにオフィクレイドを含む金管楽器のリズムに乗って職人たちの踊るベルガマスク舞曲が繰り出される。展開部は妖精たちの主題が中心。再度,冒頭の管楽器の和音が出てきた後,再現部へ。最後に再度,冒頭の和音で出てきて,静かに消えるように終わる。

  • スケルツォ Scherzo op.61-1

森の中の妖精のささやきを思わせるような軽妙な曲。第1幕と第2幕の幕間に演奏される。木管楽器が軽やかにスケルツォの主題を演奏した後,弦楽器に引き継がれる。

  • 間奏曲 Intermesso op.61-5

2幕と第3幕の間の間奏曲。2つの部分からなる。前半では恋人ライサンダーの姿を求めてさまよう娘ハーミアの憂いを表現。後半は,第3幕で登場する職人たちの素朴で陽気な行進曲。

  • 夜想曲 Notturno op.61-7

3幕の終わりで演奏される。劇中に出てくる2組の恋人たち(ライサンダーとハーミア/ディミートリアスとヘレーナ)が森の中で眠る情景を描く。独奏ホルンの演奏するロマンティックなメロディが大きな聴きどころ(ホルン奏者にとっては災難もとい難所)。中間部以降は弦楽器のしっとりとした響きが絡み美しい。

  • 結婚行進曲 Wedding March op.61-9

言わずと知れた著名な曲。ワーグナーの「ローエングリン」よりと並び結婚式での常連曲。

獅子鷹

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シューマン 交響曲第3番変ホ長調「ライン」Op.97

この世には大別して“現実主義”の人と“理想主義”の人がいます。実際には両者が同居していて、行きつ戻りつうろうろしているのがふつうの人間のあり方ですが、ロベルト・シューマンは完全に“理想主義”を生涯にわたって貫いた人でした。理想は、ある意味現実を超えたユートピアであり、理想主義は、理屈より感性、目に見える現実より目に見えないファンタジーを貴ぶ当時西欧で盛んだったロマン主義に合致します。シューマンはまさにロマン主義を音楽で体現した人でした。

ロマン派の巨匠シューマンが1830年に20歳になって法律家ではなく音楽家を目指すことを決意した時、母親に訴えた、なりたい職種のリストは①指揮者、②音楽教師、③名ピアニスト、④作曲家の順でした。つまり、音楽家として成功するとすればこの順番が成功の指標となり、なりたい優先順位だというのです。しかし、それから10年以上経った脂の乗り切った30歳台後半にさしかかった頃になると、①~③は、適性がなかったり、指を壊したりで大成するどころか、挫折を味わっています。つまり、音楽家としてなりたかった上位の職種は実現できず、一番優先順位が低かった④作曲家にかろうじてなれたというわけです。(因みに、シューマンは①~④をすべて一流レベルで達成した1歳年上のメンデルスゾーンをある意味尊敬し、生涯暖かい眼差しで見守りました)

人は現実と理想との間にギャップがあればこのギャップを埋めるべく努力なり精進をしていきます。このギャップが大きく複雑なほど、また達成不可能であるほど、これを乗り越える努力は困難なものとなり、その達成への取組みはより質の高いものになります。

シューマンの場合、なりたい職種で一流をなすことはできませんでしたが、そのギャップを埋める努力の過程や挫折は(いや、むしろ挫折によって“理想”の偉大さを自覚したからこそ!!)、かならずや、一流に到達した“作曲”におけるロマン主義の音楽の質的深化や陰影に貢献することになるでしょう。

そして、作曲家シューマンは、こと作曲に関してはその種のギャップに悩むことなく、理想となるロマン主義音楽を難なく具現化したのです(なお、作曲技法は自己流であり、正統派とはギャップがあり、オーケストレーションに難がある等と取りざたされましたが、これとて現在はシューマン一流のロマン主義(=理想主義)の発露とみなされています)

1850年、“不惑”の40歳に達した作曲家シューマンは、ドレスデンからライン河の流れに沿ったデュッセルドルフの管弦楽団・合唱団の音楽監督に招かれます(もちろん、前述のように、この仕事は不調に終わります...)。この時期、シューマンの、最後は発狂へと至る精神病はだいぶ昂進していたようですが、風光明媚な、ローレライ等、歌と伝説に育まれたライン河の詩情に触発されて、彼の最後の交響曲をたった2か月で書き上げました(185011月~12月)。これが、交響曲第3番「ライン」です。(交響曲第4番は、これより先に作曲されています)

なお、各章は、それぞれ、第1楽章(ローレライ)、第2楽章(コブレンツからボン)、第3楽章(ボンからケルン)、第4楽章(ケルンの大聖堂における枢機卿の就任式)、第5楽章(デュッセルドルフのカーニヴァル)と関係が深いといわれています。

 

1楽章 生き生きと(Lebhaft)変ホ長調。3/4拍子。ソナタ形式。

2楽章 スケルツォ きわめて中庸に(Sehr mäßig)ハ長調。3/4拍子。

3楽章 速くなく(Nicht schnell)変イ長調。4/4拍子。

4楽章 荘厳に(Feierlich)楽譜の調記号は変ホ長調だが、実際の響きは変ホ短調。4/4拍子。

5楽章 フィナーレ 生き生きと(Lebhaft)変ホ長調。2/2拍子。

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シベリウス 交響曲第1番ホ短調Op.39

シベリウスは1865128日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれ、9歳からピアノ、15歳からヴァイオリンを開始。1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。1889年、ベルリンに留学。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事。そして故郷に帰り、母校で教鞭とるかたわら、作曲を本格的に開始します。

 

シベリウスは交響曲第1番を作曲する以前に、民族叙事詩「カレワラ」に基づき、独唱と合唱を伴うカンタータ風の「クレルヴォ交響曲」(1892年)を作曲していました。「クレルヴォ交響曲」から本作が作曲されるまでの間に器楽のみの「音楽的対話」という標題交響曲が計画されましたが放棄されています(一部のモティーフが交響曲第1番に盛り込まれ手います)。すでに交響詩の分野では愛国心の結晶ともいうべき「フィンランディア」を初め、「トゥオネラの白鳥」を含む「4つの伝説曲」など代表作となる傑作を残しています。さらに、本作に着手する(18984月)直前の18983月に彼はベルリンでベルリオーズの幻想交響曲を聴き、大きな感銘を受けています(劇的効果の影響があったかも)。そしてシベリウスは滞在先のベルリンで早速交響曲第1番の作曲に着手したのでした。完成は1899年初頭。なお、改訂を受け190071日に現行版がヘルシンキ・フィルハーモニーにて初演されています。

 

「シベリウスの想像力にとって、交響的形式はまったく妨げにならない。逆に彼はそこで驚くべき自由を発揮している。シベリウスの交響曲には、もはやフィンランド的要素を見出すことは困難である。なぜなら作曲者は彼独自の語法を用いつつも、全人類に通ずる普遍言語を語っているからだ」1899年の交響曲第1番の初演を聴いたリヒャルト・ファルテンはこう述べています。

お分かりでしょうか?“彼独自の語法”つまりは、フィンランドに根差したラプソディックな民族的要素を用いつつも、“語法の普遍性”つまりは、フィンランドを超越した普遍的なものを語っているというのです。いわば交響詩(標題音楽的)の要素を孕みながら、それを越えた絶対音楽的なものになっているというのです。

 シベリウスは「私の交響曲は、まったく文学の要素を持たない音楽表現である。・・音楽は言葉が語りえないところからはじまると信じている。私の交響曲の核心は純粋に音楽的なものである」といっており、あくまでも理想は純音楽/絶対音楽を目指したのでした。

 しかし、西洋音楽史における自身の位置や民族の置かれた社会状況は厳しいものでした。

 音楽史では、ベートーヴェン以来交響曲はすでに完成の域に達し、シベリウスの頃は後期ロマン派かつ国民楽派くらいしか生きる道はありません。しかも、近隣にはチャイコフスキーやボロディン等がいていやおうなしにロマン主義国民主義的な影響を受けざるを得ません。また、ロマン派全盛の時代にあっては、交響詩的なアプローチが迫られるのです。

 一方、社会状況的には、ロシアからの政治的圧力により、フィンランド国民としては、民族的アイデンティティを追求するしかなかったのでした。こうした現実から目をそらすことなく、しかし、理想とする絶対音楽をその上に打ち立てたのが、“交響詩的純器楽交響曲”交響曲第1番だったのです(パッションの激しさ等からシベリウスの“悲愴”といわれることがありますが、シベリウスは「チャイコフスキーとは異なり私の音楽は硬質である」と述べて明確に否定しています)。シベリウスの思いを知ったとき、この曲を涙なしには聴けません........。この曲および交響曲第2番の成功後、自身の理想を実現すべく、すべからく抽象的絶対音楽に邁進することになります。

 

曲はかなり交響詩風ではあるが、標題のない純器楽交響曲。第4楽章には「幻想風に」との指示まであるが、その一方で、第1楽章の序奏と第4楽章の序奏に同じ主題を用い、またどちらの楽章も最後はピツィカートで締めくくるなど独特な曲想統一の工夫がなされている。

・第1楽章 Andante, ma non troppo - Allegro energico

ホ短調、序奏付きソナタ形式。

・第2楽章 Andante (ma non troppo lento) - Un poco meno andante - Molto

  tranquillo

変ホ長調、三部形式。

・第3楽章 Scherzo. Allegro - Trio. Lento (ma non troppo)

ハ長調、三部形式。

・第4楽章 Finale(Quasi una Fantasia). Andante - Allegro molto - Andante assai - Allegro molto come prima - Andante (ma non troppo) 

   ホ短調、序奏付きソナタ形式。

                                                                                                             獅子鷹

  

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ブラームス 悲劇的序曲Op.81、交響曲第3番ヘ長調Op.90

“四苦八苦”という言葉があります。この世は苦しみだらけ、という仏教の用語ですが、四苦とは“生老病死”の4つです。最大の苦しみは“死”ですが、“生”きることも“病”んだり“老”いたりしながら死に至るわけですからすべて“苦”というわけです(ちなみに、四苦八苦=4×9+8×9=108=大晦日の除夜の鐘で落とすべき煩悩の数)。話がまだらこしくなりましたが、ブラームスもこの四苦に苛まれつつ、時には翻弄され、時には払拭しかけたがやっぱりダメだったり・・、と見事なほどに自身の人生に真摯に向き合いながら、噛めば噛むほど味が出る珠玉の作品群を後世のわれわれに残してくれました。

 

今回の悲劇的序曲と交響曲第3番も、そんな味わい深い大傑作です。

 

この2曲は、1880から1883年にかけてという、ブラームスの音楽人生の最充実期に書かれましたが、彼の内面における、ある重大な共通点が見て取れます。それは、それぞれ1人の女性が登場し、愛という“生”における最も情熱的で切ない“苦”が盛り込まれていることと、この“苦”を充実した音楽で克服していることではないでしょうか。

 

まず、悲劇的序曲についてみてみましょう。

18809月の出版社宛ての手紙で、ブラームスは楽しい大学祝典序曲にふれたのち、「この機会に私の孤独な気持に対して悲劇的序曲を書くことを誓わざるをえなかった」と記しています。同時期に書かれた楽しい方の「大学祝典序曲」と苦しい方の「悲劇的序曲」の相補性は有名な話ですが、それはともかく、なぜ「孤独な気持に対して~」この曲を書いたのでしょうか。

この謎を解くカギが1つあります。ブラームスはスケッチを残すのが大きらいで、今は殆ど捨てられて残っていないのですが、悲劇的序曲のスケッチだけはなぜか奇跡的に残っていたのです(ウイーン楽友会所蔵)。このスケッチ帳は、作曲の10年以上前のもので、「アルト・ラプソディ」や「愛の歌」とともにこの悲劇的序曲の64小節の断片が記されていました。「アルト・ラプソディ」「愛の歌」は、密かに愛したクララ・シューマンの娘ユーリエが他の男性と結婚することになった際(1869年)、万感の思いを持って書かれました(しかも、ユーリエは結婚後、“病”いに倒れ、若くして“死”んでしまいます)。つまり、このスケッチ帳全体がユーリエへの愛の告白帳とも言え、ユーリエへの痛切な愛とそれを成就できなかった“苦”が前述の「孤独な気持」として10年以上ブラームスの心情に燻り続けた末、あのスケッチ帳から再び燃え上って悲劇的序曲として表出したといえないでしょうか。そう考えると、こてこての絶対音楽信奉者で、標題音楽の大嫌いなブラームスが敢えて“悲劇的”という標題を与えざるをえなかった恋という“苦”の深さが理解できると思います。

曲は、ニ短調で始まる自由なソナタ形式で、展開部を兼ねる再現部では、主題が柔和なホルンのニ長調となって薄日が差すが、やはり短調となり、最後はニ短調で苦を激しく吐露して終わる。しかし、曲を通じた決然とした激しい勢いは、この苦を凌駕するような力強さを感じさせるものになっているのです。

初演は18801226日、ウィーン楽友協会大ホールにてハンス・リヒター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。

 

次に、交響曲第3番をみてみましょう。

今度登場するのはこの曲を作曲した1883年、ブラームス50歳の時に出会ったヘルミーネ・シュピースというアルト歌手です。ブラームスは歌唱力と女性としての魅力に惹かれ、彼女もブラームスが滞在していたヴィースバーデンまで訪れ、ブラームスも結婚相手として意識しますが、結婚にまでは踏み切れませんでした。 彼の友人の日記によればブラームスは53歳の頃に、「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころは地位が無く、いまでは遅すぎる。」と語り、23歳も年下のシュピースとは結婚は考えられなかったようです。結局、儚い恋に終わったわけですが、恋の甘美さや成就しない苦しさ、儚さといった情緒は、交響曲第3番の随所にブラームスらしからぬ?歌曲のような美しくも切ないメロディとなって表れているようです(特に第3楽章)。

さて、交響曲第3番です。先述の四苦にあてはめると、交響曲第1番は“生”の苦の面を表現したとすれば、交響曲第2番は真逆の“生”の楽の面を表し、交響曲第4番は“老”と“死”を表現しているといえます。では、この曲は何を表現しているのでしょうか。

この曲をさまざまな角度から分析すると、あらゆる相反する矛盾が内包されていることに気付きます。たとえば、ヘ長調の曲なので、第一楽章の冒頭F-A-F(ブラームスのモットーであるFrei aber froh=自由だがしかし楽しく)を使うべきなのに、F-A-Fとへ短調を配したり、第4楽章はヘ短調で始め最後だけようやくヘ長調で終わっています。また、全体的に、雄大で力強い男性的な響きがあるのに、それぞれの楽章の終わりはpで静かで、いわば女性的です。あるいは、北方ハンブルク的な重厚かつ暗くどんよりした曲想と南国イタリア的な、旋律を大きく歌わせるようなメロディ(例、第4楽章第2主題)の組み合わせ然り..

 また、各楽章をみると、第1楽章は激しく吠えて“生”の苦の面が垣間見え、対して第2楽章は柔和に歌う“生”の楽の面で、この2つで相矛盾する関係に見えます。しかし、第3楽章は、一転、恋の甘美さと成就できない苦しさが吐露され、これを第4楽章で闘争的に克服し最後は、へ長調となって、すべてを赦すかのように静かに終結します。結論的に、前述のあらゆる矛盾を抱えながら、最終的にすべての“生”における恋をはじめとした“苦”を超越して、諦観的な“楽”に超出しているといえます。つまり、交響曲第3番は、“生”における矛盾する“苦楽”をもろともに超越し、次元の高い寂静の“楽”の境地に到達したといえましょう。演奏するオケにとっては、pでしかも“悟りの境地”で終わるのは至難の業ですが、実力の差が出るといえましょう。そして、精一杯こころに染み渡るpを表現できたとき初めて、交響曲第4番の“老”と“死”を真の意味で理解できるのだと思います。

 なお、初演は1883122日、ハンス・リヒターの指揮により、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会。結果は大成功で、ブラームスは再三カーテンコールを受けました。

                                         獅子鷹

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ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調Op.88

「満ちあふれる楽想をただちに書き取ることができさえしたら。しかし、ゆっくりとしか進まない。手がついていけない・・・(作曲が)思いがけなくたやすく進んでおり、旋律が私の中から流れ出す」。第7交響曲を世に送り出して大成功を収めた後、ドヴォルザークは、18898月の友人宛てへの手紙で、作曲家人生における収穫期を迎えた心情を素直に吐露しています。

ドヴォルザークはふつうブラームスとともに標題音楽全盛の19世紀後半に、絶対音楽を守り通した音楽家として評価されています。しかしブラームスと異なり、オペラなども作曲しており、そのために晩年には師であったブラームスとの間が気まずいことにもなっています。純粋な“ブラームス学徒”たるべきドヴォルザークがなんで標題音楽を・・・。この理由は、作曲の出発点がワーグナーの影響であること、リストなど標題音楽の申し子である交響詩の影響を受けたこと、などが考えられますが、何よりボヘミアの自然や民族の誇りをベースとしたメロディ作曲家だったことが最大の理由でしょう。美しいメロディは、具体的な風景やストーリーを表象し、抽象的で小難しい絶対音楽に比べ、わかりやすく、親しみやすいのです。そして、冒頭のように、次からつぎへと泉のようにこんこんと湧いてくるメロディを交響曲第8番としてシンフォニー化するときがやってきました。

交響曲第8番は、18899月から11月にかけて、わずか2か月弱という驚異的なスピードで書き上げられました。前作の交響曲第7番(1885)は、師であるブラームスに敬意を表して、ドイツ新古典派の形式を苦吟して守りましたが(絶対音楽的)、第8番は、ボヘミアの自然や民族へのあふれ出るような愛で満ちており、まるで、ベートーヴェンが“運命”の苦悩を克服してハイリゲンシュタットの“田園”に回帰したような純粋な自然や自分自身と戯れる喜びが見て取れます。しかも、息の長いフレージングや、リズミックなモチーフの連続等は具体的なイメージや絵画性(ボヘミアの大地、小鳥のさえずり、民族的舞踏、蒸気機関車の驀進・・)を彷彿させます。ですから、標題こそついていませんが、限りなく標題音楽的といえると思います。(なお、一時「イギリス」との標題がついていたが、これはイギリスからの依頼で作曲された関係で内容とは一切関係ないため、最近はこの標題が付されていない)

初演は、18902月にドヴォルザーク自身の指揮によりプラハで行われました。また、同年4月依頼元のイギリスに渡り、ロンドンのフィルハーモニー協会の演奏会で大喝采を受け、同年ケンブリッジ大学の名誉博士の称号を授与されたのでした。

 1楽章 Allegro con brio ト長調 4分の4拍子 自由なソナタ形式

 

 第1主題は、メランコリックかつ憧憬的な息の長いト短調の序奏(チェロ、クラリネット、ファゴット、ホルン)と18小節からのト長調のフルートのさえずりからなる。第2主題はロ短調で木管に現れる。その後冒頭より控えめに序奏が出て展開部に入る。第1主題を中心に劇的に展開され、高揚後トランペットの強奏で序奏が回帰し再現部へ入る。さえずりは提示部と同じように木管に現れるがほとんど発展せずに第2主題部へ移行。コーダではテンションを維持したまま曲を閉じる。

 

2楽章 Adagioハ短調 4分の2拍子 自由な三部形式

 

 冒頭弦楽器により4度上行の音階的な主題が出ると、11小節からフルートが深山のカッコウを思わせるような動機を出し、クラリネットが受ける。中間部はハ長調に転じ、ヴァイオリンの下降音型に乗って4度動機を用いた優雅なメロディが美しい。ヴァイオリンのソロに注目。一旦頂点を築いたのち、弦の静寂が現れ、冒頭主題、カッコウが再現する。その後、4度動機を用いた展開的転調を繰り返しつつ高揚し、中間部を回想しつつ1つの頂点を経て静かに終わる。形式にとらわれず、複数の動機を用いて時間経過とともに展開していく手法は、交響詩的である。

 

3楽章 Allegretto grazioso - Molto vivace ト短調 8分の3拍子 三部形式

 

憂いを孕んだ情感に満ちた民族的舞曲風のワルツ。中間部はト長調に転じ、ボヘミアの田園を思わせるメロディを木管が出す。ト長調4拍子となる力強いコーダもまた同じ素材を元にしている。

 

4楽章 Allegro ma non troppoト長調 4分の2拍子 自由な変奏曲またはロンド風形式

 

 トランペットの祝祭のファンファーレのあと、チェロによって主題が提示される。何度か変奏されたのち、テュッティで力強く速く演奏される。ここではホルンの激しいトリルに注目。その後、フルートが新主題を軽やかに奏し、再テュッティの後、ト短調に転じて行進曲風の主題をクラリネットが出す。この、ドヴォルザークが愛した蒸気機関車が驀進するかのような激烈な進行を経て、189小節からは主要動機が再提示、展開後、ホルンとトランペットによる冒頭ファンファーレで頂点を築く。その後、チェロの主題が静かに再現。テュッティでの主題が再現後、さらに速度を速めて高揚し、ボヘミアの未来を祝福するかのように壮麗に締めくくる。

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