思考

シューマン 交響曲第3番変ホ長調「ライン」Op.97

この世には大別して“現実主義”の人と“理想主義”の人がいます。実際には両者が同居していて、行きつ戻りつうろうろしているのがふつうの人間のあり方ですが、ロベルト・シューマンは完全に“理想主義”を生涯にわたって貫いた人でした。理想は、ある意味現実を超えたユートピアであり、理想主義は、理屈より感性、目に見える現実より目に見えないファンタジーを貴ぶ当時西欧で盛んだったロマン主義に合致します。シューマンはまさにロマン主義を音楽で体現した人でした。

ロマン派の巨匠シューマンが1830年に20歳になって法律家ではなく音楽家を目指すことを決意した時、母親に訴えた、なりたい職種のリストは①指揮者、②音楽教師、③名ピアニスト、④作曲家の順でした。つまり、音楽家として成功するとすればこの順番が成功の指標となり、なりたい優先順位だというのです。しかし、それから10年以上経った脂の乗り切った30歳台後半にさしかかった頃になると、①~③は、適性がなかったり、指を壊したりで大成するどころか、挫折を味わっています。つまり、音楽家としてなりたかった上位の職種は実現できず、一番優先順位が低かった④作曲家にかろうじてなれたというわけです。(因みに、シューマンは①~④をすべて一流レベルで達成した1歳年上のメンデルスゾーンをある意味尊敬し、生涯暖かい眼差しで見守りました)

人は現実と理想との間にギャップがあればこのギャップを埋めるべく努力なり精進をしていきます。このギャップが大きく複雑なほど、また達成不可能であるほど、これを乗り越える努力は困難なものとなり、その達成への取組みはより質の高いものになります。

シューマンの場合、なりたい職種で一流をなすことはできませんでしたが、そのギャップを埋める努力の過程や挫折は(いや、むしろ挫折によって“理想”の偉大さを自覚したからこそ!!)、かならずや、一流に到達した“作曲”におけるロマン主義の音楽の質的深化や陰影に貢献することになるでしょう。

そして、作曲家シューマンは、こと作曲に関してはその種のギャップに悩むことなく、理想となるロマン主義音楽を難なく具現化したのです(なお、作曲技法は自己流であり、正統派とはギャップがあり、オーケストレーションに難がある等と取りざたされましたが、これとて現在はシューマン一流のロマン主義(=理想主義)の発露とみなされています)

1850年、“不惑”の40歳に達した作曲家シューマンは、ドレスデンからライン河の流れに沿ったデュッセルドルフの管弦楽団・合唱団の音楽監督に招かれます(もちろん、前述のように、この仕事は不調に終わります...)。この時期、シューマンの、最後は発狂へと至る精神病はだいぶ昂進していたようですが、風光明媚な、ローレライ等、歌と伝説に育まれたライン河の詩情に触発されて、彼の最後の交響曲をたった2か月で書き上げました(185011月~12月)。これが、交響曲第3番「ライン」です。(交響曲第4番は、これより先に作曲されています)

なお、各章は、それぞれ、第1楽章(ローレライ)、第2楽章(コブレンツからボン)、第3楽章(ボンからケルン)、第4楽章(ケルンの大聖堂における枢機卿の就任式)、第5楽章(デュッセルドルフのカーニヴァル)と関係が深いといわれています。

 

1楽章 生き生きと(Lebhaft)変ホ長調。3/4拍子。ソナタ形式。

2楽章 スケルツォ きわめて中庸に(Sehr mäßig)ハ長調。3/4拍子。

3楽章 速くなく(Nicht schnell)変イ長調。4/4拍子。

4楽章 荘厳に(Feierlich)楽譜の調記号は変ホ長調だが、実際の響きは変ホ短調。4/4拍子。

5楽章 フィナーレ 生き生きと(Lebhaft)変ホ長調。2/2拍子。

                                             獅子鷹

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シベリウス 交響曲第1番ホ短調Op.39

シベリウスは1865128日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれ、9歳からピアノ、15歳からヴァイオリンを開始。1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。1889年、ベルリンに留学。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事。そして故郷に帰り、母校で教鞭とるかたわら、作曲を本格的に開始します。

 

シベリウスは交響曲第1番を作曲する以前に、民族叙事詩「カレワラ」に基づき、独唱と合唱を伴うカンタータ風の「クレルヴォ交響曲」(1892年)を作曲していました。「クレルヴォ交響曲」から本作が作曲されるまでの間に器楽のみの「音楽的対話」という標題交響曲が計画されましたが放棄されています(一部のモティーフが交響曲第1番に盛り込まれ手います)。すでに交響詩の分野では愛国心の結晶ともいうべき「フィンランディア」を初め、「トゥオネラの白鳥」を含む「4つの伝説曲」など代表作となる傑作を残しています。さらに、本作に着手する(18984月)直前の18983月に彼はベルリンでベルリオーズの幻想交響曲を聴き、大きな感銘を受けています(劇的効果の影響があったかも)。そしてシベリウスは滞在先のベルリンで早速交響曲第1番の作曲に着手したのでした。完成は1899年初頭。なお、改訂を受け190071日に現行版がヘルシンキ・フィルハーモニーにて初演されています。

 

「シベリウスの想像力にとって、交響的形式はまったく妨げにならない。逆に彼はそこで驚くべき自由を発揮している。シベリウスの交響曲には、もはやフィンランド的要素を見出すことは困難である。なぜなら作曲者は彼独自の語法を用いつつも、全人類に通ずる普遍言語を語っているからだ」1899年の交響曲第1番の初演を聴いたリヒャルト・ファルテンはこう述べています。

お分かりでしょうか?“彼独自の語法”つまりは、フィンランドに根差したラプソディックな民族的要素を用いつつも、“語法の普遍性”つまりは、フィンランドを超越した普遍的なものを語っているというのです。いわば交響詩(標題音楽的)の要素を孕みながら、それを越えた絶対音楽的なものになっているというのです。

 シベリウスは「私の交響曲は、まったく文学の要素を持たない音楽表現である。・・音楽は言葉が語りえないところからはじまると信じている。私の交響曲の核心は純粋に音楽的なものである」といっており、あくまでも理想は純音楽/絶対音楽を目指したのでした。

 しかし、西洋音楽史における自身の位置や民族の置かれた社会状況は厳しいものでした。

 音楽史では、ベートーヴェン以来交響曲はすでに完成の域に達し、シベリウスの頃は後期ロマン派かつ国民楽派くらいしか生きる道はありません。しかも、近隣にはチャイコフスキーやボロディン等がいていやおうなしにロマン主義国民主義的な影響を受けざるを得ません。また、ロマン派全盛の時代にあっては、交響詩的なアプローチが迫られるのです。

 一方、社会状況的には、ロシアからの政治的圧力により、フィンランド国民としては、民族的アイデンティティを追求するしかなかったのでした。こうした現実から目をそらすことなく、しかし、理想とする絶対音楽をその上に打ち立てたのが、“交響詩的純器楽交響曲”交響曲第1番だったのです(パッションの激しさ等からシベリウスの“悲愴”といわれることがありますが、シベリウスは「チャイコフスキーとは異なり私の音楽は硬質である」と述べて明確に否定しています)。シベリウスの思いを知ったとき、この曲を涙なしには聴けません........。この曲および交響曲第2番の成功後、自身の理想を実現すべく、すべからく抽象的絶対音楽に邁進することになります。

 

曲はかなり交響詩風ではあるが、標題のない純器楽交響曲。第4楽章には「幻想風に」との指示まであるが、その一方で、第1楽章の序奏と第4楽章の序奏に同じ主題を用い、またどちらの楽章も最後はピツィカートで締めくくるなど独特な曲想統一の工夫がなされている。

・第1楽章 Andante, ma non troppo - Allegro energico

ホ短調、序奏付きソナタ形式。

・第2楽章 Andante (ma non troppo lento) - Un poco meno andante - Molto

  tranquillo

変ホ長調、三部形式。

・第3楽章 Scherzo. Allegro - Trio. Lento (ma non troppo)

ハ長調、三部形式。

・第4楽章 Finale(Quasi una Fantasia). Andante - Allegro molto - Andante assai - Allegro molto come prima - Andante (ma non troppo) 

   ホ短調、序奏付きソナタ形式。

                                                                                                             獅子鷹

  

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“福島”か“FUKUSHIMA”か?

今日のNHKラジオで、あるミュージシャンがこんな趣旨の発言をしていた。

「福島を表現するとき、“福島”では、地震・津波・放射能でダメージを受けた特定の場所の意味にとどまってしまう。わたしは“FUKUSHIMA”と表現したい。こう表現することで、福島の人々や地域の痛みの共有や復興への思いだけでなく、“HIROSHIMA”同様、二度とこのような過ちをおかしてはならないというメッセージとして世界に発信するという意味を込めている...」

基本的に賛成である。

“このような過ち”とは、単に、想定外(この言葉、免罪符として乱発されていないか)の地震・津波で、あの甚大な放射能汚染を引き起こし、美しい福島を死の土地(風評被害を煽っているのでは全くない!)をにしてしまったからだけではない。本質的には、原子力発電を推進してきた行政のあり方・エネルギー政策さらにはグローバル経済に完全に組み込まれている経済のあり方や日本という国の方向性まで突き詰めて考えよ、というメッセージになりうると私は思う。このようなメッセージを、象徴的に“FUKUSHIMA”という横文字に込めて、持続的にしかも世界に伝えるということは、恥ずかしいとも言えるくらいもたもたしている政府の尻をたたくという意味でも大事だと思う。

しかし、である。たとえば、先ほど福島を“死の土地”と表現したが、福島で復興に取り組んで、日々生き抜いている方々にとっては、とんでもない!と叱られるであろう。ことほど左様に、象徴的に“FUKUSHIMA”といってしまうと、現場の血や汗と遊離して、観念だけで、物事が先鋭的に把握されるおそれもあるのである。つまり、悪気はないのに“死の土地”という言葉が独り歩きし、結果として、福島の方々の微妙繊細な思いを踏みにじる結果を生じることも出てくる。

こう考えると、いろいろな思いを込めた象徴的・理想的な“FUKUSHIMA”は、確かに大事ではあるが、その先には、やはり、日々、そのとき、その場所で福島を精一杯生きるなま身の生活に思いをいたす実体的・現実的な“福島”に還相回向することが一番大事であると思う。

理想を求め“FUKUSHIMA”という大空に飛び立った飛行機は、いずれ、母なる大地“福島”へ帰還するのである。まかり間違っても宇宙へ飛び出したり、墜落してはなるまい。

“福島”即是“FUKUSHIMA”

“FUKUSHIMA”即是“福島”

獅子鷹

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慧玄さん曰く「請う其の本を努めよ」

昨日、東京国立博物館で開催されている妙心寺の特別展を観に行った。開山の無相大師関山慧玄(かんざんえげん)の没後650年を2年後に控え、これに因んでのものである。

私は慧玄さん(親しみを込めてさん付けで呼ばせてもらう)が大好きである。

慧玄さんは私の同郷信州の出で、鎌倉から南北朝にかけての臨済宗の禅僧である。30歳で鎌倉建長寺で南浦紹明(大応国師)に師事。師示寂後、建長寺における開山蘭渓道隆五十年忌出席中、京都に傑物在ると聞くや否や京都大徳寺に向かい、宗峰妙超(大燈国師)に参禅する。そして53歳で開悟し、宗峰がこれを印可証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。

もう悟りを開いたのだから、慧玄さんは自由である。悟後の修行に美濃伊深の里に草庵を結んで隠棲していた(現在の岐阜県美濃加茂市。この場所には現在正眼寺という道場があり、巨人軍の川上哲治監督もここで坐禅修行をしている)。この間、慧玄さんは昼間は近くの農家のお手伝いや草履買いなどの御用聞き、夜は山中での坐禅三昧の日々を送っていた。

一方、都では花園上皇が離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。宗峰がまな弟子の慧玄さんを推挙したのだ。

さあ、大変だ。美濃の山奥に、都からのきらびやかな勅使がやってきた。里の人はたまげた。草履買いなどで重宝していたあの人のいいおっさんは、実はどえらい人だったんだあ。

慧玄さんは最初は都行きを固辞したが、やはり勅命にはかなわない。都からのお迎えの日、敬愛する里の人が別れを惜しむかのようにいつまでもついてきた。でもいつまでもついていくわけにいかない。この場所を「関」として最後の別れをした。(この場所が現在の岐阜県関市である)

心ならずも都に召し出だされて、妙心寺の開山となった慧玄さんは、形式に拘らず厳しく弟子を指導し、妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかったという。また、ふらっと、行脚修行にでかけて花園上皇に呼び戻されるなどもしたようである。

あるとき、慧玄さんは旅の支度をして二祖授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。時に84歳である。

さて、妙心寺特別展である。

入り口に慧玄さんの坐像が安置されていた。江戸時代300年忌時の制作である。そのまっすぐな視線、謹厳実直でいて、なにか温かみを感じる雰囲気。慧玄さんがそこにいるかのようでなにか懐かしい感じがした。大好きな慧玄さん。。慧玄さんのような懐の深い人になりたい。

あとは、慧玄さんの着ていたというボロボロの袈裟や質素な頭陀袋をみたり、昨日から展示が始まった国宝「瓢鯰図(すべすべの瓢箪でぬるぬるの鯰をどうやって捕らえるかという禅の公案に因む)」の人だかりを遠目にみて、早々に退散した。

私にとっては、臨済禅の法灯を現在に伝える種々の展示物より、慧玄さんの「目指しているもの」がたとえわずかでもそこここに横溢しているのを見届けたかっただけかもしれない。

慧玄さんは語録だの書物だのは一切残さなかったが、数少ない言葉※として「請うその本を努めよ」が残っている。これこそ慧玄さんの「目指しているもの」そのものである。心ある人はぜひ参究していただきたい。

「慧玄が這裏(しゃり)に生死なし」「柏樹子(はくじゅし)の話に賊機あり」もある。

獅子鷹

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呼吸はこころである

人は生まれて死ぬまで「呼吸」のお世話になる。おぎゃーと声を発する前に人生最初の「息」を吸い、「この人生は有意義な(あるいは無意味な?)人生であった」と呟き人生最後の息を吐いてこの世を去る。この間、人は休むことなく呼吸を繰り返す。感情の乱れから過吸状態になり、無意識にため息が出てしまう。こころを落ち着けるために、努めて深呼吸をする。。無意識・意識に関わらず、呼吸は私たちの生活にぴったり寄り添っており、こころそのものといっていい(実際、「息」は「自」らの「心」と読める)。

息は「呼」と「吸」の繰り返しからなる。

これを振り子の運動に喩えてみる。振り子が周期運動をするためには、錘を真下から斜め上に引き上げる必要がある。この行為が人生最初の「吸」である。息をいっぱいに吸うと次の瞬間息を吐く「呼」に転ずる。この転換点が振り子運動の「端」である。この端では錘は運動自体を一瞬静止する(エネルギー保存則では位置エネルギー最大、運動エネルギーゼロ)。人でいうと絶景を見たときに思わず息を呑んで目に焼き付ける行為というのだろうか(ニーチェのパースペクティズム(=一瞬の眺望をあたかも永遠の存在と錯覚すること)の現前ともいえる)。とにかく「生」をもっとも鮮やかに感じる瞬間であろう。

次に息を「呼」に転じると、息をハーッと吐き、やがて苦しくなって、息を「吸」に転ずる瞬間がやってくる。振り子の錘が「端」からやおら真下を目指して動き出し、いよいよ加速度を増して真下を一瞬にして最大速度で通過したその瞬間のことである。この時点で位置エネルギーはゼロ、運動エネルギーは最大。人でいうと息を吐ききり、もう吐けない、苦しい、死んでしまう、すべてがぐるぐる回り、思考するどころでなくなる状態。つまり「死」にもっとも近づく瞬間ではないか。

この死にふれた瞬間錘は、振り子の反対側に飛び出して「吸」が復活するのである。そしてまた反対の端まで振れ、また戻る。これの繰り返し。そして空気の摩擦などにより、だんだん振り幅が縮まり、やがて静止する(本当の死を迎える)。

ふつうはなんとなく呼吸をしているが、実は、一呼一吸の度に「生死」を繰り返していることに気づくといろいろなことがわかってくる。

たとえば、自殺を考える。死にたいと思って死ぬ人は(殉教者を除いて)まずいまい。だれでも生きたいのだ。こんなに生きたいのに世の中が思い通りにならない。「生きたい」といってこころが発散しきったまま自らの命を絶つ。。つまり、振り子が端に行ったときに自らの錘をつなぐ糸を切ってしまうのである。錘の運命はいかばかりか。。死後、錘(自分)はどこへいってしまうのか。生と死が離ればなれとなり、股裂きに遭ったような死。こんな悲劇はないと思う。

また、溺死は一番残酷な死に方といわれる(経験談がないので断定は避ける)。やはり、生きたい(酸素を吸いたい)のにかなわずに、生の端に向かう途上で死なざるを得ないからではないのか。。

仏教や東洋医学では呼吸の「呼」を重んじる。「呼」を大切にせよ。「吸」は自然にまかせよ、と。つまり、「呼」を大切にして、息を吐ききっていったん死にきれ。すると、死の底から自然と復活し、我の消失した覚の境地であたらしい生が自然と他力的に現前するというのである。キリストは十字架で磔死後、神の子イエスとして復活した。彼は身を以って呼吸の大切さを示したとさえいえるのだ。瞬間瞬間の呼吸でこの境地を体得できれば、なんと楽しいことか。

私はフレンチホルンを吹いているが、演奏自体が呼吸そのものである。音をだす間は「呼」つまり死に向かう聖なる瞬間なのだ。「吸」はそのための準備である。そもそも「呼」という字は声や音を立てる(呼ぶ)という意味であるから、弦楽器であれ管楽器であれ打楽器であれ声楽であれ、あらゆる演奏は死に触れる聖なる行為といえる。音楽は理屈抜きにリアルに触れる行為なのである。だから、やめられない。。

ちなみに、呼吸は意識していないときは本能的な身体のもの、意識的に統御するときはこころのものである。つまり、こころと身体を絶対矛盾的に統合する「魂」のものである。

呼吸を制する者、魂/こころを制する。すなわち、自らを律することができるのである。

獅子鷹

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今年の漢字は「変」

恒例の1年の世相を漢字1文字で表す2008年「今年の漢字」が「変」と決まったそうである。なんでも「change(変革)」を訴えたオバマ氏が次期米大統領に選ばれたことや、日本の首相がせわしなく短期間で交代したことなどのほか、サブプライムローン問題に端を発した世界経済の大変動などが理由だそうである。

「変革」への渇望、「変化」疲れ、「変てこりん」な世相といったところか。

でも、昨年の「偽」のようにストレートに納得するインパクトが足りないようにも思う。なんというか、「変」は実はいつでも身近にあるようなあたりまえの事態だからか。そう物事は常に「変わって」いるのである。

ご承知のように、ものはすべて振動している。今年のノーベル賞受賞理論「対称性の破れ」により誕生したとされる宇宙内にあって、動いているものは動いているし、静止しているものの実は振動しているという意味で動いている。場合によっては、化学変化を起こしたり核分裂を起こしたりと大変である。つまり、すべてのものは変化してやまないのある。

ものの変種?である人間とて例外ではない。そもそも生まれて死ぬ。その間成長期もあるが、老いたり、病んだりとなにかと忙しい。細胞も日々刻々と生滅を繰り返す。アンチエージングなることばがあるが、これほど人間の願望に訴えることばもない。不老長寿は不可能だからこそ憧れとなる。だが、今年の漢字「変」を前にして脆くも崩れ去るしかないのですねえ。

その人間のこころ・意識もおして知るべし。なにしろ「ころころ」と変化しまくるのが「こころ」の語源すからねえ。

獅子鷹

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幸福の家族モデルとは?

先日の読売新聞人生案内(6/19)は、「夫への愛情が冷めた、どうしたらいいか?」というものだった。これに対する元女子マラソン選手の増田明美さんの回答があまりにも見事だっだので、紹介したいと思います。

問いの要旨「30歳台主婦。結婚10年。私は細かい性格。夫はマイペース。ここ数年夫の嫌な面(靴や服脱ぎっぱなし、おなか出る・・)ばかり目立ち、好きという気持ちが失せ、小言ばかり言っている。ただ仕事はまじめ、育児には協力的。子供に好かれる。何年たっても好きでいられる男性が他にいたのではと、最近後悔が募る。愛情が冷めたというだけで離婚するのはだめか」

回答要旨「父親としては満点。でも気になることは思い切って言おう(子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて、健康のために少しやせて・・)。「愛情が冷めた」とあなたは言うが、「恋愛感情」が冷めただけでは。夫や子供に愛情を感じることは多々あるでしょう。「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」

うーん、非の打ち所がありません。完全な模範解答。と、ここで終わってもいいのですが、ちょっと、以下の「家族の役割構造図」で分析してみたいと思います。

Photo_5   どこやらで見かけた「ボロメオの輪」がまたもや登場しました。「家族」はこの三位一体構造で説明できると思います。

母は万物を生み出す根源として大地に相当します。父はこの世(家族)の大黒柱たる「象徴」として天に相当します。無明の混沌から天地が分かれ、世界が誕生します(まあ、一組のカップルが誕生したといっていいでしょう)。母(大地)からは「生命本能愛」が天に向けて陽炎のように発せられます。これが天に達しやがて水蒸気・雲となり、父(天)は大地に心地よい雨を降らせます。これが「結婚」です。潤い続けた地上には多くの生命体が誕生します。すなわち、子供が生まれ、「家族」が誕生します。以上が自然洞察から生まれた家族像(仮説)です。

女である母は、本性として愛を純粋贈与する存在です。子供に対しては無償の母性愛、夫に対しては女としての生命本能愛を無償で注ぎ続けるのが「自然」の状態です。なお子供は一方的に「奪う愛」です。(この愛が足りないと子供は切れるようになるのです)

子供は羊水内以来の母親との一体関係に夢見心地ですが、ふと気づくと、家庭内に母子の仲を切り裂く「父」の存在を知ることになります(エディプス・コンプレックスの始原ともいえます)。一方、父は父で自分の子孫が増えたことのみに満足し、妻の乳房を独占する子を厭わしくさえ思います。この相反する関係を乗り越えるには「理性」しかありません。かくて、父と子は理性愛(愛の本性ではない)で結ばれることなります。

夫は妻からの愛を受けて(陽炎)これに気づいて初めて愛(雨)を注ぐのが自然な状態といえます。つまり、妻はいつでも愛を発信し、答え(「愛しているよ」というコトバでもいい)を待っているのが自然状態なのですね。ところが、夫は、陽炎を受けても、気づかなかったり、陽炎が濃すぎて煩わしくなってつい違う大地(余所の女?)に怪しい雨を降らせてトラブったりするのですね。

さて、事例に戻ります。

夫は「育児には協力的。子供に好かれる。」ですから、「子-父」関係はOK。ただ「子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて」=理性をもう少し働かせて。また、「健康のために少しやせて」は「母-父」の生命本能愛の発現ですから「マイペースの夫」に気づいてもらうためにも「細かい性格」を生かして思い切って言おう。(付け加えると、夫は妻の愛の発現に気づき、まめにプレゼントなどの愛情表現をすると円満になるのです。)

最後に、「「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」まさにボロメオの輪の「母-父-子」が重なるところ「家族愛(無償的)」の重要性を喝破しているのです。完璧!

獅子鷹

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出雲大社に詣でる3

本殿前で一通りの説明を受けた後、改めてざっと内部を覗き込む。八雲の天井絵は正面の蔀(立ち入り禁止線)から身を乗り出さないとよく見えないので、寝そべったり、倒れこみそうになる人もいた。それより気になるのは、大黒柱右奥の御神座である。もっとも、本殿正面からは中央の大黒柱と右側の側柱を結ぶ板仕切りによって直接は見えないようになっている。蔀の最左端からわずかに空間の一部が覗けるのみである。

まあ、主は仮殿へ引っ越したのだから、霊界の盟主の気配はなく、もぬけの殻という印象であった。ほんとうになにもいなかった。(だから、俗人が入れるのだが。)

ということは、普段はやはり大国主命が「いる」のだろうか。そう「いる」のである。八百万の国日本では、古くから自然や森羅万象に神が宿ると信じている。水に水神、風に風神、木に木霊といった具合に目に見えるものにはそれを成り立たせる「何か見えないもの」がはたらいており、これを「神」というのだ。しかし、何かが見えるやいなや、神はお隠れになる運命にある。日本人には、この直観が腑に落ちるのである。

だから、大国主命=神はお隠れになっていてけっして見ることはできないが同時に「いる(観るのである)」ということになる。目に見える日本国が天皇を戴いて存続できるのは、目に見えない霊界の神の親分たる彼のお陰である。ということか。

蛇足だが、国名「日本」はなかなかに本質的な名称だ。何せ、「日、太陽」=天照、「本、根源」=大黒で、「日即是本」ということになる。これで一切を表しきっているといえる。

そんなことをつらつら考えつつ、階段をよろけながら降り、なんだかボーっとしながら八足門を出た。そうだ。もう空腹に耐えられない。はやく荒木屋の出雲そばを戴こう。銘酒「八千矛」を入手しよう。なーにこれも、大黒様の思し召しにちがいない。

獅子鷹

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出雲大社に詣でる2

バス停横の鳥居から本殿や拝殿(今は仮本殿として大国主命が仮住まい中)のある境内「荒垣」まで約数百メートルあり、参道が木立の中をなだらかに下りながら一直線に伸びている。まるで、荒垣に吸い寄せられるようにただひたすら歩く。すると、目指す本殿特別拝観の行列が荒垣正門の外まで50メートルほどはみ出しているのが見える。この列の最後尾に並んだのが、8:30過ぎ。P5130019

この日の拝観開始は9:30からであるが、もう前倒しで受付は始まっているようだった。並ぶや否や、ホッとしたのか眠気・空腹・頸痛が復活。加えて、雨が降り始めた。しかも小雨が降っては薄日が差すという不安定な天気。「大黒様」もちとご機嫌ななめか。(アパート仮住まい中に、改築中の我が家を他人に覗かれるなんていやだもんなあ。でもそこは霊界の盟主。喜んで受け入れてくれるだろう)P5130020

列は1時間ほどで本殿前へ進み、本殿前の八足門脇の受付テントで記帳を済ませて「御本殿特別拝観之証」なる券片を受け取り、いよいよ通常は天皇陛下も入場を許されない本殿へ。(ここから先は撮影禁止)

八足門の中で靴をぬぎ、真新しい白木が敷き詰められた通路を進み、急な勾配の階段を上ると、本殿が眼前にぬっと現れた。ぐるりと建屋を取り囲む縁側を南から反時計回りにゆっくり進み、最後に南面の正面前でお宮の人のお話をききながら、内部を覗き込む。

「右奥の仕切り奥が大国主命の御神座です。今は留守中です。ちょうど真ん中の柱が直径1.1メートルの「心中柱」です。まさに「大黒柱」です。天井に描かれているのが有名な「八雲之図」です。1744年の造営遷宮の際に描かれました。八雲なのに七つしか雲はありません。理由ははっきり分かっていません。一説では、近くの神社に九つの雲があり、ここの雲が飛んでいったとも言われています・・・」

(つづく)

獅子鷹

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出雲大社に詣でる

P5130016_3 先日、思い立って出雲大社に詣でた。出雲大社では、今年から平成25年にかけて、60年に一度の国宝本殿の屋根の葺き替えなどの改修を行っており、先月4月20日には祭神の大国主命(大黒様)を仮殿へ移す「仮殿遷座祭」が行われ、主が留守になった本殿を拝観できるため、ちょっと興味を引かれたのである。

出雲大社は一生に一度は行ってみたいと思っていたし、60年に一度の本殿拝観のチャンス(40代の私にとって今後事実上もう無い)という俗っぽい興味もあった。また、割子の出雲そばや地酒などに舌鼓をうちたいという本来!?の目的もあった。

大丸地下で「すし鉄」の鉄火巻きを買い、夜7時すぎに東京八重洲でスサノウ号という夜行バスに乗り、揺られること12時間。翌朝7時すぎに出雲市駅前に到着。朝飯も食べず、睡眠不足を取り戻す仮眠もせず、寝違えて痛めた頸をさすりながら、すぐに、大社行きの畑電バスに乗り換えた。目的は単純明快。本殿特別拝観の列に早く並ぶこと!!

バスは通学時間帯と重なり、多くの参拝客のほかに女子高生が多く乗り込んできて、私の隣にも座った。高齢の方も多い参拝客の高揚したざわめきある雰囲気とは対照的に、彼女たちは、試験勉強であろうか、なにやら静かに真剣にノートに見入っている。何気に目をやると、「デモクリトスの主張は」「善のイデアとは何か」「ニコマコス倫理学とは何か」などの文字が躍っている。思わず「がんばって」と心の中で応援していた。と同時に、西洋哲学の起源のギリシャ哲学を学ぶ彼女たちの生まれ育った地に「出雲神話」があることを羨ましくも思った。先に国土を形成して「国つ神」となり、後に「天つ神」の天照大神に国を譲った大国主命は、目に見える存在の盟主となった天照(天皇の先祖)に対して、目に見えない霊界の盟主となり、生死一如で日本国を支えているというのだ。「千と千尋の神隠し」はまさにこのことがテーマ。目に見える世界では「千尋」という個別の名前をもった少女は、新興住宅街のはずれのテーマパークのトンネル(この世と霊界との境界)をくぐり、「千」となる。すなわち、名前を奪われる(千=たくさん、八百万の世界)ことになる。

彼女たちは大社直前のバス停で整然と降りていった。

程なく、巨大なコンクリート製鳥居が現れて、まっすぐに北に伸びる門前町にはいり、一畑電車の駅を横に見てさらに進むと、樹木に覆われた神域が忽然と現れ、俗界と分かつように鳥居が立っていた。ここでバスを降り、鳥居の前に立った。バスの中では眠気と空腹と頸痛に苛まれていたのだが、なぜかすべて止んだ。

覚醒した目で鳥居の奥を凝視する。はるかかなたの正面に、本殿が陽炎のように見えた。

次の瞬間、足取りも軽く、本殿を目指していた。

獅子鷹(つづく)

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