哲学

ワーグナー 歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲

 ワーグナーはドイツ・ロマン派の巨星で、いわゆる“未来の総合芸術”という一種のユートピア的芸術形態を目指し、個々の芸術要素(音楽、文学、舞踊・・)はドラマ(=楽劇)という総合形態に統合されるべきとしてその実現に奔走した希代の音楽家です。要するに、まず、従来の歌劇は堕落した、器楽音楽はベートーヴェンの第9をもって使命を全うした、個々の交響曲は無価値だと否定し去ります。そして、すべての芸術は、“ドラマ”という目的に奉仕すべきだというのです。これは、大作「ニーベルングの指環」4部作の理論的根拠にもなり、同時代以降の音楽芸術に甚大な影響を与えました。(ドヴォルザークも ブラームスに会うまでは熱烈なワグネリアンで、プラハで上演されるワーグナー物は欠かさず観賞しています)

 とはいえ、この「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、肩の力が抜けたというか、例外的にワーグナーほとんど唯一の大衆的な喜歌劇の部類に入るものです。初稿は、タンホイザー初演の1845年、完成は「指環」や「トリスタンとイゾルデ」などをはさみ約20年後の1867年。1868621日、ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場でハンス・フォン・ビューローの指揮により初演されました。

 今回採り上げる第一幕への前奏曲は、劇中の主要動機が明確なかたちで要約されており、この歌劇全体の戯曲的構成が見事に織り成されています。

獅子鷹

 

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メンデルスゾーン 劇音楽「夏の夜の夢」より序曲(Op.21)、スケルツォ・間奏曲・夜想曲・結婚行進曲(Op.61)

 皆さんは現実と夢の区別をつけられますか?普通に考えれば、つけられますよね。普段の日常生活が現実だし、眠っているとき見るのが夢で、ちゃんと頭ではわかっています。でも、たとえば、憧れの人に出会っただけで「夢」見心地になるし、夢で憧れの人とデートして「夢よ覚めるな=現実であってくれ~」と願ったりします(あるいは悪夢があまりにもリアル(=現実的)で目覚めが悪い・・)。つまり、現実と夢は白黒に峻別できるものではなく、いつでも隣り合わせあるいは溶け合って共存している事態だといえないでしょうか?つまり、「現実/夢=人が体験できるこの世の世界」と定義できます。ところが、「この世」とくれば「あの世」があるはずです。いわば人が絶対体験できない、あちら側の世界です。しかし、わずかながら人はあちらの世界を垣間見ることができます。唯一、「夢」を媒介にして…。

 シェークスピアが書いた戯曲「夏の世の夢」は、まさに「この世」と「あの世」が夏至の夜(夏至は昼夜の長さが最も異なるため、バランスを崩してあの世の妖精や悪魔が登場するといわれています)の「夢」を舞台に百花繚乱する神秘的な物語です。この物語で「夢」とは「アテネ近郊の森」が舞台となります。

 戯曲のあらすじと上記の「現実」「夢」の関係は次の通りです。ただし、上記の通り、現実もすべては「夢」に包含されることになるでしょう!まさにすべて「夏の世の夢」!!

【現実1】アテネ公シーシアスとアマゾン国のヒポリタとの結婚式が間近に迫っており、その御前から舞台は始まる。貴族の若者ハーミアとライサンダーは恋仲であるが、ハーミアの父イジーアスはディミートリアスという若者とハーミアを結婚させようとする。ハーミアは聞き入れないため、イジーアスは「父の言いつけに背く娘は死刑とする」という古い法律に則って、シーシアスに娘ハーミアを死刑にすることを願い出る。シーシアスは悩むものの、自らの結婚式までの4日を猶予としてハーミアへ与え、ディミートリアスと結婚するか死刑かを選ばせる。ライサンダーとハーミアは夜に抜け出して森で会うことにする。ハーミアはこのことを友人ヘレナに打ち明ける。ディミートリアスを愛しているヘレナは二人の後を追う。ハーミアを思うディミートリアスもまた森に行くと考えたからだ。

【現実2】シーシアスとヒポリタの結婚式で芝居をするために、ボトムら6人の職人が一人の家に集まっている。役割を決め、練習のために次の夜、森で集まることにする。かくして、10人の人間が、夏至の夜に妖精の集う森へ出かけていくことになる。 

【夢1】森では妖精王オーベロンと女王ティターニアが連れ子を巡って、仲違いしていた。機嫌を損ねたオーベロンは妖精パックを使って、ティターニアのまぶたに花の汁から作った媚薬をぬらせることにする。キューピッドの矢の魔法から生まれたこの媚薬は、目を覚まして最初に見たものに恋してしまう作用がある。パックが森で眠っていたライサンダーにもこの媚薬を塗ってしまうことで、ライサンダーとディミートリアスがヘレナを愛するようになり、大混乱。また、パックは森に来ていた職人ボトムの頭をロバに変えてしまう。目を覚ましたティターニアはこの奇妙な者に惚れてしまう。

【夢2】オーベロンはティターニアが気の毒になり、ボトムの頭からロバの頭をとりさり、ティターニアにかかった魔法を解いて二人は和解する。また、ライサンダーにかかった魔法も解かれ、ハーミアとの関係も元通りになる。一方、ディミートリアスはヘレナに求愛し、ハーミアの父イジーアスに頼んで娘の死刑を取りやめるよう説得することにする。

【現実3】これで2組の男女、妖精の王と女王は円満な関係に落ち着き、6人の職人たちもシーシアスとヒポリタの結婚式で無事に劇を行うことになった。

さて、メンデルスゾーンが作曲した劇音楽「真夏の夜の夢」です。まず、17歳のメンデルスゾーンがシェークスピアの「真夏の夜の夢」のドイツ語訳を読み,序曲を一気に作曲しました。その17年後,プロシア国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世に命じられて書いたのが残りの12曲です。

以下は、組み合わせてコンサートで演奏される曲群です。

  • 序曲 Overture op.21

ソナタ形式。冒頭からすべては「夢」であることを暗示。木管楽器群による「何かおこるぞ」という感じの微妙な「森」の和音に続き,弦楽器の繊細な動きによる第1主題が出る。これは妖精の戯れを表現している。続いて,シーシアスの宮廷を示す壮麗なメロディ。第2主題は劇中に出てくる恋人たち。甘く下降してくるような優雅なメロディ。さらにオフィクレイドを含む金管楽器のリズムに乗って職人たちの踊るベルガマスク舞曲が繰り出される。展開部は妖精たちの主題が中心。再度,冒頭の管楽器の和音が出てきた後,再現部へ。最後に再度,冒頭の和音で出てきて,静かに消えるように終わる。

  • スケルツォ Scherzo op.61-1

森の中の妖精のささやきを思わせるような軽妙な曲。第1幕と第2幕の幕間に演奏される。木管楽器が軽やかにスケルツォの主題を演奏した後,弦楽器に引き継がれる。

  • 間奏曲 Intermesso op.61-5

2幕と第3幕の間の間奏曲。2つの部分からなる。前半では恋人ライサンダーの姿を求めてさまよう娘ハーミアの憂いを表現。後半は,第3幕で登場する職人たちの素朴で陽気な行進曲。

  • 夜想曲 Notturno op.61-7

3幕の終わりで演奏される。劇中に出てくる2組の恋人たち(ライサンダーとハーミア/ディミートリアスとヘレーナ)が森の中で眠る情景を描く。独奏ホルンの演奏するロマンティックなメロディが大きな聴きどころ(ホルン奏者にとっては災難もとい難所)。中間部以降は弦楽器のしっとりとした響きが絡み美しい。

  • 結婚行進曲 Wedding March op.61-9

言わずと知れた著名な曲。ワーグナーの「ローエングリン」よりと並び結婚式での常連曲。

獅子鷹

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幸福の家族モデルとは?

先日の読売新聞人生案内(6/19)は、「夫への愛情が冷めた、どうしたらいいか?」というものだった。これに対する元女子マラソン選手の増田明美さんの回答があまりにも見事だっだので、紹介したいと思います。

問いの要旨「30歳台主婦。結婚10年。私は細かい性格。夫はマイペース。ここ数年夫の嫌な面(靴や服脱ぎっぱなし、おなか出る・・)ばかり目立ち、好きという気持ちが失せ、小言ばかり言っている。ただ仕事はまじめ、育児には協力的。子供に好かれる。何年たっても好きでいられる男性が他にいたのではと、最近後悔が募る。愛情が冷めたというだけで離婚するのはだめか」

回答要旨「父親としては満点。でも気になることは思い切って言おう(子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて、健康のために少しやせて・・)。「愛情が冷めた」とあなたは言うが、「恋愛感情」が冷めただけでは。夫や子供に愛情を感じることは多々あるでしょう。「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」

うーん、非の打ち所がありません。完全な模範解答。と、ここで終わってもいいのですが、ちょっと、以下の「家族の役割構造図」で分析してみたいと思います。

Photo_5   どこやらで見かけた「ボロメオの輪」がまたもや登場しました。「家族」はこの三位一体構造で説明できると思います。

母は万物を生み出す根源として大地に相当します。父はこの世(家族)の大黒柱たる「象徴」として天に相当します。無明の混沌から天地が分かれ、世界が誕生します(まあ、一組のカップルが誕生したといっていいでしょう)。母(大地)からは「生命本能愛」が天に向けて陽炎のように発せられます。これが天に達しやがて水蒸気・雲となり、父(天)は大地に心地よい雨を降らせます。これが「結婚」です。潤い続けた地上には多くの生命体が誕生します。すなわち、子供が生まれ、「家族」が誕生します。以上が自然洞察から生まれた家族像(仮説)です。

女である母は、本性として愛を純粋贈与する存在です。子供に対しては無償の母性愛、夫に対しては女としての生命本能愛を無償で注ぎ続けるのが「自然」の状態です。なお子供は一方的に「奪う愛」です。(この愛が足りないと子供は切れるようになるのです)

子供は羊水内以来の母親との一体関係に夢見心地ですが、ふと気づくと、家庭内に母子の仲を切り裂く「父」の存在を知ることになります(エディプス・コンプレックスの始原ともいえます)。一方、父は父で自分の子孫が増えたことのみに満足し、妻の乳房を独占する子を厭わしくさえ思います。この相反する関係を乗り越えるには「理性」しかありません。かくて、父と子は理性愛(愛の本性ではない)で結ばれることなります。

夫は妻からの愛を受けて(陽炎)これに気づいて初めて愛(雨)を注ぐのが自然な状態といえます。つまり、妻はいつでも愛を発信し、答え(「愛しているよ」というコトバでもいい)を待っているのが自然状態なのですね。ところが、夫は、陽炎を受けても、気づかなかったり、陽炎が濃すぎて煩わしくなってつい違う大地(余所の女?)に怪しい雨を降らせてトラブったりするのですね。

さて、事例に戻ります。

夫は「育児には協力的。子供に好かれる。」ですから、「子-父」関係はOK。ただ「子供のしつけに悪いから靴や服の脱ぎっぱなしはやめて」=理性をもう少し働かせて。また、「健康のために少しやせて」は「母-父」の生命本能愛の発現ですから「マイペースの夫」に気づいてもらうためにも「細かい性格」を生かして思い切って言おう。(付け加えると、夫は妻の愛の発現に気づき、まめにプレゼントなどの愛情表現をすると円満になるのです。)

最後に、「「恋」は冷めたり色あせたりするが、「愛」は形を変えて永遠に続くもの。家族愛に包まれている今の生活を大事にされることを勧める」まさにボロメオの輪の「母-父-子」が重なるところ「家族愛(無償的)」の重要性を喝破しているのです。完璧!

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その6~判断系非意識~

最後は、「行:判断系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、前段階で「想:表象系」が大活躍して(コンピュータではプログラムを実行して)いますが、その演算結果を確定させる段階です。Photo_2

ここで、判断系の非意識として、「布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の概念を提示したいと思います。まず、判断系非意識布施/愛→共感/慈悲→真理表現」の入出力関係を整理しておきます。

                       リアル(環境、自分)【色:表現系、識:記憶系】

                           ↑      ↑      ↑

戒     →定     →智慧    布施/愛→共感/慈悲→真理表現【判断系非意識】

↓↑     ↓↑         ↓↑       ↑      ↑      ↑ 

体験/想像→思考/意味→分析/理解 → 感情表現→価値判断→概念/原理化【判断系意識】 


(1)布施/愛について                                                    

布施/愛は、何の感情も伴わない純粋な贈与の判断です。入力は、表象系非意識の戒と、判断系意識の「感情表現」です。前者は、直感→戒→布施/愛と流れる極めて自然なリアル/無意識と一体となったプロセスですね。後者が曲者です。通常われわれは知覚→体験/想像→感情表現というように、原初の対象をはなれ、美醜・好悪・喜怒哀楽をはじめとするあらゆる感情表現に発散させます。ここに人生を見出します。しかし、真実はリアルに近い布施/愛に気づくのが自然なのですね。感情表現に執着するから、自然に反して苦しいのです。そして感情表現(を滅し)→布施/愛リアルと環境や他人に対しては「表現」し、自己に対しては「記憶」し、よいカルマとして次のリアルとの「触」に備えるというわけです。


(2)共感/慈悲について

共感/慈悲は、布施/愛と親和する概念ですが、一つの違いは、の裏づけがある点です。こころを落ち着け、浄化されると、打算や善悪などの価値判断を超えた「無願」の判断が泉のように湧き出してきます。これが共感/慈悲です。また、「察する」の意識世界では、認知→思考/意味化(認識)→価値判断というように、原初の対象を後得の理知で「それは何の役にたつのか」「価値はあるのか」「良否は」と現世の利を求めて苦しんでいます。そこで、そういう思考判断を手放して、対象であるリアル大悲を注ごうというのが、価値判断(を滅し)→共感/慈悲リアルの流れなのです。


(3)真理表現について

真理表現は、大悲→大智という般若の智慧である「真理」の判断という意味です。判断系意識である「概念化/原理化」はあくまで現象世界における分別を原理・原則化したものですが(「真偽は」と問う)、この真理リアル/無意識(潜在性)をも含んだ「一切」を包含する真理なのですね。ですから、概念化/原理化(これは分析世界の部分的真理に過ぎないことを観じてこれを滅し)→真理表現リアルと至る流れが自然の流れといえます。

これで、非意識系についてのお話は終わります。(つづく)


獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その5~表象系非意識~

さて、いよいよ「想:表象系非意識」です。「こころのメタプロセス」において、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」後、「受」:知覚系(INPUT)が生起し、知覚系非意識(直感→洞察→直観)を介して知覚系意識(知覚→認知→分類)が表面化します。これは、いわば、リアルとの接触をこころが了解した段階です。コンピュータでは、データをメモリに格納した段階になります。

次に、いよいよこころのメタプロセスのメインイベントである、「想」:表象系(データを読み出してプログラムを実行する段階にあたります)になります。Photo_2      

  ここで、表象系の非意識として、「戒→定→智慧」の概念を提示したいと思います。戒・定・慧といえば、「三学」といって仏教における「覚りへの道」そのものですね。まず、表象系非意識戒→定→智慧」の入出力関係を整理しておきます。                                                     

リアル(環境、自分)【色:現象系、識:想起系】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【受:知覚系非意識】 → 戒   →定     →智慧【想:表象系非意識】

↓   ↓   ↓                ↓↑    ↓↑     ↓↑

知覚→認知→分類【受:知覚系意識】 →体験/想像→思考/意味→分析/理解【想:表象系意識】                  

(1)戒について

「感ずる」に対応する表象系非意識を、いきなりという概念で提示しました。何かピンときませんね。入力関係を見ますと、表象系意識の「体験/想像」と相互に入出力関係あり、と定義しています。ここは、表象系意識の側から見てみます。

表象系意識「体験/想像」とは、「知覚」した対象を具体的にイメージする段階です。いわば、原初的な「幻想」が発生するわけです。この「幻想」に基づき、いろんな感情(美醜、喜怒哀楽・・)が発生し、いわゆる四苦八苦につながっていくわけです。ですから、「苦につながることはするな」ということになってきます。これを意識側の「体験/想像」からみれば、「苦につながるような体験/想像を慎め」であり、これを習慣化すれば、無意識側に追い込むことができ、これが表象系非意識として実践されることになります。戒が非意識的に板についてくると、逆に意識側の「体験/想像」も整えられてくるという相乗的入出力関係が成立します。

リアル(環境・自分)という「意識の生滅のおおもと」は、まったく、意識の思い通りになりません。穏やかな日もあれば、大地震の日もあります。よい出会いもあれば、悪い出会いもあります。天使の自分もあれば、よこしまな自分もあります。意識で制御はできないのです。できることは、これらの「体験/想像」から必然的に生ずる「苦」を極力減らすように「の習慣化」をするのみのようです。

は同じ非意識の中で、直感が入力となります。直感リアルとの原初的出会いです。リアルと想像界の最初の接触面である直感では、主客の別もなければ、概念も意味も発生しません。もっとも純粋な「リアル感受」といってもいいと思います。両義性のこの接触面を想像界側(意識側)から見ると、一でもあり多様体でもあるリアルを意識側が勝手に分節し三次元化し、さんざ悪さをしますので、リアルと一体の直感から非意識のまま上記のようなへ移行するのが自然ななりゆきではないでしょうか。

(2)定について

については、入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 定 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)洞察 → 定 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)思考/意味化 ⇔ 定 (表象系意識との相互入出力関係)

i)の習慣化(諸悪莫作 衆善奉行)によりリアルからの入力のブレがなくなってくると、自然とこころの様相は浄化され、「禅」の状態に入りやすくなります。これを意識の側から行うのが、iii)の思考/意味化からのアプローチです。すなわち、「察する」における表象とは、イメージと概念(記号・言語による)の交差点たる「思考・思量」ですが、この意識の王様たる「思考・思量」を手放すというアプローチが「非思量」でありの意識状態です。逆に、をつかむと、「思考・思量」が頭の中を通過しても、落ち着いてやりすごせるという安楽な世界が出現します(いわゆる、「自浄其意」の実現といってもいいでしょう)。また、ii)の洞察ですが、文字通り、洞は空と同じですから、何も介せずにリアルを直接「察する」という意味になります。この直接「察した」ものをそのまま、は表象する、すなわち、何も「思量せず」に受け入れるということになります。

(3)智慧について

最後は智慧です。入力関係は以下の3つとなります。

 i) → 智慧 (表象系非意識同士の流れ)

 ii)直観 → 智慧 (知覚系非意識からの流れ)

 iii)分析/理解 ⇔ 智慧 (表象系意識との相互入出力関係)

i)はいうまでもなく、「禅」→般若の「智慧」の関係ですね。戒→定→慧という仏道の王道を智慧という「理」で表象します。ii)直観は、リアルを理屈抜きに直接把握することをさします(これが意識化すると、なんらかの「分類」にしたがって、名前付けがなされたりします)。直観がすなわち、純粋な思念の彼岸たる智慧へもたらされます。また、iii)は分析/理解という意識側からのアプローチです。「分析/理解」というのは、「思考」とならんで、人間脳の癒しがたい代表的意識形態ですね。「分かった」というのが、この意識の最大の誤謬です。なにせ、ある対象をいくつかに「分けて」これをあわせれば「一切」といって全部「分かった」と「理解」しているのですから。なにも、「分ける」必要はありません。リアルはもともと1つの「空」の世界。文字通り「分けられない=分からない」世界が実相なのです。このリアルを直接表象する智慧に気づきなさい、といっているのですね。これは、世間や意識の分別的知恵でなく、無分別的般若の智慧ということです。逆に、智慧をつかむと、本質を外さない「分析/理解」で深みがでてきます。なお、蛇足ながら、この文章のように理で智慧を表現しようとすると、ほんとうにまだらこしくなりますね。 

獅子鷹

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「見る」と「観る」の違い(悟りの道)その4~知覚系非意識~

Photo だいぶ間があいてしまい、失礼しました。さて、いよいよ、「悟り系」??について仮説を進めてみます。まずは、左図をよく見てください。前回の「無意識系」と「意識系」の中間に「非意識系」をピンクで挿入しています。左側のボロメオの輪のうち、無意識系Rと意識系(I(感) → I-S(察) →S(観))の重なり合う部位(R-I → R-I-S →S-R)が「非意識系」です。意識系がわれわれの心に立ち現れる(つまり、現象として分節化・差異化・非対称化される)以前の、「世界がいっしょくた」の差異のないいわば平等の世界、つまり、対称性を備える(現象前のこの段階で、現象後に分節化する対象はすべて同じ資格をもつという意味、すなわち入れ替え可能)というのが、この「非意識系」です。 

初回に、「つまり、最終的には意識世界①、②、③各々について、それ以前の世界があることを言いたい為なのですね。

これを、「感ずる」に対して「直感」  「考察する」に対して「洞察」
    「観ずる」に対して「直観」

というワードを充ててみたいと思っています。
いかにも意識の下で分別的に働いているように思われますが、実は、対象と一体化した上での心の働きだと考えています。
いわば、意識に対して非意識(あくまで無意識ではない) 」と書きました。

これを、上図の「非意識系」のマトリクスに入れてみました。

これは、以下の「こころのメタプロセス」(と名づけます)にあてはめますと、2.「受:知覚系」に対応しています。

【こころのメタプロセス】

1.「色:現象系」=外部データを入力する(自然界、他人に接する)
  「識:想起系」=内部データを読み出す(記憶、知識を想起する、生理欲が起こる)
2.「受:知覚系」=データをメモリに記憶する
3.「想:表象系」=プログラムに従って演算回路で演算を行う
4.「行:判断系」=演算の結果を確定する
5.「色:表現系」=外部へデータを出力する(身・口・意で外へ働きかけを行う)
  「識:記憶系」=内部記憶装置へデータを書き込む(経験知として記憶する)

つまりこころのメタプロセスにおいて、「色(現象系)、識(想起系)」でRリアルとの「(接)触」がまずあり、次にこころのうち「受」:知覚系(INPUT)が生起し、まず非意識系直感→洞察→直観の流れを介して意識系の知覚→認知→分類に表面化するわけです。(なお、カントは「純粋理性批判」でここでの「直感」に「直観」の文言を当てているようですが)

まとめると、

リアル(環境、自分)【色(現象系)、識(想起系)】

↓   ↓   ↓

直感→洞察→直観【非意識系の受(知覚系)】

↓   ↓   ↓

知覚→認知→分類【意識系の受(知覚系)】

という関係に整理できます。

では、「想」(表象系)と「行」(判断系)はどうなるのでしょうか(上図?の部分。)

(つづく)

獅子鷹

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悟った心とは?

悟った心を喩えて、「大円鏡智」といったりします。「外」たる外界をそのまま写し、「内」たる心の内奥をあるがままに写す。大円のようにまろやかな、静謐なる、永遠に穢れることのない鏡というわけです。鏡の字は「金」ヘンに「竟」。「土」ヘンに置き換えると「境」ですからまさに「境目」を表しています。きれいに磨かれた鏡面が全く見えないように本来鏡自体に「自性」はありません。ただただ、「境目」として(いわば媒介として)「内」「外」をそのままに写すのみです。

ところが、ほとんどの人は「悟って」いません。つまり、曇っていたり、割れていたりします。そうすると、本来の「内」「外」がよく見えなかったり、全く違うように見えたりします。その結果、安全カミソリで顔を切ってしまったりすることになります(よくやるんですよ)。

では、曇らないように自分の鏡(心)を磨くとはどういうことなのでしょうか。

2つの例を挙げます。

・禅宗(達磨さんが初祖)の六祖慧能(7~8世紀・中国)は、坐禅の宗派らしく、こういいます。

、一切善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐となし、、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」

まず「」すなわち、鏡である心からみて「見る」のはたらきにおいては、外界の経験や、経験の想起を善悪、美醜、真偽といった二分法(排中律)の価値判断でするな!という。

次に「」すなわち、鏡である心からみて「観る」のはたらきにおいては、無自性である心/観念の湧き出てくるおおもと(つまり自性=空性)を観じ、信じて動揺するな!という。

これを、「坐禅」という修行で達成しようとするのです。いや、坐禅自体が悟りそのものといっているようです。ですから、禅宗では、自分の心を磨くことは「坐禅」そのものです。

・弘法大師空海(8~9世紀・日本)はこんなことを言っています。

「心というのは内部でも外部でもない。しかし、自らの内にひろがる内在的で無限の領域である。それは「空」であるけれど、あらゆるイメージ(身体としての言葉)が透明なまま重なり合っている」

なんという大胆で的確な表現でしょうか。ほんとうに悟った心から見た表現です。外とか内とか対立概念を立てるような方便的顕教的表現を突き抜けており、大日如来の心境(鏡!?)をあらわしているようです。

獅子鷹

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誰でも仏になれる?

キリスト教やイスラム教(ユダヤもそう)世界で、「誰でも神になれる。もちろん僕も!」などと呟いたとたん、「お前、気が狂ったか」と言われるだろう。しかし、日本で、「誰でも仏になれる。もちろん僕も!」といっても、それほど違和感はない。同じ「宗教」を語っていても、この違いはどこから来るのだろうか。

この違いについて「対称性人類学」を実践されている中沢新一氏は、キリスト教は「信仰」。仏教は「信心」。と言及されている。なるほど言いえて妙である。

神とその受肉者たるイエスを「信仰」するのが、キリスト教。ここでは「主体」である「自己」が「客体」である「神」を絶対的に「仰ぎ見る」という構図が見えてくる。自己と神の間に超えがたい溝があるかのごとくである。

これに対して、仏教は「信心」。自らの心身を見つめ、魂を磨くうちに心のうちに仏を見出せる、すなわち「自ら仏になれる」というのである。自己と仏の間には何の障壁もない。それに気づけ!というのである。

なんだか、後者の方に親しみがわいてくるではないか。

先般、「西洋哲学の限界」について書いたが、「信仰」における「自己と神の間の超えがたい溝」ということが形而上(目に見えないもの、普遍的なもの)と形而下(現実)とを厳密に分けることと通底しているようである。それどころか、ニーチェの「神は死んだ」以来、自己が唯一のよりどころとなり、人間の精神(ヒューマニズム)が絶対化し、暴走した。。西欧人をみていると、自信たっぷりに「自己」を語る(主張する)。しかし、どことなく、心休まらないようにも見受けられるのだ。(ビルゲイツさんなど欧米の大富豪がときに莫大な寄付をするのも、この代償ではないだろうかと勘繰っている。)

一方「信心」とは、神仏を対象化して見ていない。目に見える理知・感性も、目にみえない神仏も同じ心にあると見ている。仏(性)がグラデーションのように魂を介して生滅する意識とつながっており、しかもこれら全体が真の意味での「心」ととらえているのである。たとえば弘法大師空海の「秘密曼荼羅十住心論」を紐解くと、仏を潜在性の度合いと捕らえ、まさに、だれでも「即身成仏」できる可能性を説いているのである。

日本は、明治以降「信仰」の文明面だけを欧米から輸入した。しかし、文化性や宗教性は歴史的に「信心」が染み付いているのだから、魂のところでねじれを生じているのではないだろうか。文化性の上に文明が築かれるのが自然であるから、「和魂洋才」といっても、根無し草も同然である。日本人が海外で堂々と主張できないのにはそれなりの理由があるようだ。

とはいえ、「和魂洋才」のような奇妙な文明形態も広い意味では「信心」に吸収されうると思う。「信心」は「信仰」を包含しているからである。来るべき「超宗教」はその先にあると思う。

獅子鷹

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西洋哲学の限界とは?

新年早々恐縮ですが、私は、西洋的な「哲学」というものになじめません。どこか、限界をかかえているように思います。限界まではあらゆる分析・思考を駆使して、問い詰めるわけですが、いよいよ到達できないとなると、「語りえぬものには沈黙するしかない」(ウィトゲンシュタイン)。まあ、ブッダも哲学を語るときは「無記」というのですけれど。。

まあ、理知で世の中のあらゆる原理原則を導き出そうと苦悶することは、世の中を理解するために必要だと思いますが、どうしても理解を超えたり、認識不可能な事態が世の中には多いわけで、こういう事態を哲学の対象にしたとたんに、「形而上学」なるものに祭り上げられ、白い目でみられるというわけです。

たとえば「存在」をどう認識するかなんかがそうです。純粋思弁という「内部」にしかないような形式でいかに「存在」などの「外部」を認識をするかなどという問題の立て方をして、アポリア(解決困難な問題)を作り出すわけです。勝手に内部と外部をカテゴリー分けするからこうなるのではないでしょうか。(だから、哲学は口を折らざるを得ない!?)

獅子鷹

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宗教って何?

ある雑誌に、町田宗鳳氏と鎌田東二氏の対談が載っていた。読み進めると、「宗教をどう説明するか」というくだりで両氏が概略次のように述べられていた。

町田「二つの円を描いて、それぞれ心と身体を表す。宗教とは二円の重なった部分。この重なりの部分が大きいほど生きていて楽しいし、「ありがとう」という気持ちも湧いて来る。・・現代人はこの二円が離ればなれになっている。・・」

鎌田「心はウソをつくけど、体はウソをつかない。それと魂の関係を考えるのが宗教的レベルの話。・・ウソをつかない身体と、ウソをつけない魂がどうやって調和のある関係をつくっていくのかというのが一つの修行である。人間の心と身体と魂の関係をクリアにして、できるだけありのままの状態、ウソをつかない状態に近づけていくことが大事。」

ふたりの会話を統合して解釈すると、こうなる。

「宗教とは、優れて人の心身をどう捉えるかにつきる。心身は切り離すことができない。

①身体               =ウソをつかない

②魂(①と③の重なり合う部分)=ウソをつけない!

③心                =ウソをつく

心ができるだけウソをつかないように②の領域を大きくしつつ、①との調和をつくっていく(修行などを通じて)のが宗教のありかたである。」

とこんなところであろうか。なかなか示唆的な会話であると思う。

確かに、③心はウソをつく(人の為すことはすべて「偽」)。これに対して、①身体は正直である。寒いときは寒い。痛いときは痛い。必ず土に還る。まったく、ウソつきの心の思い通りになったためしがない。

では、②魂が「ウソをつけない」というのはどういうことだろうか。魂は身体と心の重なった部分であるから、心身の橋渡しをするとともに、心身の絶対矛盾(ウソをつかない/つく)を背負い込む微妙な役割を負うことになる。

魂が弱ければ(①と③の重なりが小さい、またはゼロ)、心は、自由を履き違えて「ウソをつけない」魂を誑かして悪魔のようにウソをつきまくる。すると、小心者の魂はウソを強いられ、本来のウソをつけない性に反するため、ますます弱ってしまう。

逆に魂が強ければ(①と③の重なりが大きければ)、ウソをつかない①身体とタッグを組んでウソつき性の心を極力おさえることができる(これを「自浄其意」という)ということか。

どうやら、「魂を強くし、かつ、身体に親しみ、心を平静に保つよう努力する」ことが、宗教の要諦であるようだ。

獅子鷹

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